本部長の群馬紀行
第30回 田島弥平旧宅とその周辺の史跡

 皆様、こんにちは。
 秋も深まり、東京では木枯らし1号が吹きました。

 11月1日から中学生を対象とした高等工科学校生徒の試験受付が始まっています。将来自衛官を目指す生徒に対して、必要な知識・教養等を習得させるため、普通高校と同等の教育を行います。たくさんの応募をお待ちしています。

 

 さて、群馬紀行第30回は、世界遺産「富岡製糸場と絹産業遺産群」の構成遺産の一つである田島弥平旧宅とその周辺の史跡をご紹介します。

 

 

 江戸時代末期から明治時代中期にかけて蚕種(さんしゅ、蚕の卵)の輸出でヨーロッパにまで名を知られた島村(伊勢崎市境島村)は、前橋市内から約25km、50分の伊勢崎市東南部の利根川沿岸に位置し、治水目的の河川改修により利根川を隔てて南北に分断され、埼玉県に接する地区南部は河川飛び地となっています。写真は、地区南部の堤防から見た「島村渡船」ですが、群馬紀行第22回でご紹介した「赤岩渡船」と同様、利根川を渡る橋のない公道で、市道の一部として伊勢崎市が運行しています。

 

 

 写真は、天明2年(1782年)に地区南部に建てられた「島村の板蔵」と呼ばれる高床式の倉庫です。穀物を積み込みながら四方の壁板を柱に差し込む「落とし羽目板式」の板囲いと切妻式の屋根を持つ県内唯一の建築様式で、屋根と蓋の空間と高床式である程度の温度調節も可能だったようです。完成した翌年には浅間山が噴火し、島村も飢饉に見舞われましたが、この板蔵が大いに役立ったと言われています。

 

 

 島村で蚕種業が始まったのは約200年前と言われ、文政年間(1818〜1830年)の利根川の頻繁な洪水により多くの田畑を失った農家が、洪水で運ばれた砂質土が桑の木を育てるのに適していたことや、通船業が盛んな利根川沿岸という地の利を生かして蚕種農家に転換し、明治初めには全村の2/3を占めたそうです。地区南部の境島小学校の敷地内には、明治32年に建てられた「島村沿革碑」があり、島村の起源や地理、利根川との闘いの様子、蚕種業を発展させた島村の人々の歴史が記されています。写真は、碑の隣に開設された「田島弥平旧宅案内所」です。

 

 

 1822年に地区南部の農家に生まれた田島弥平は、奥羽などで養蚕法を学んだ後、自然育が基本であった当時の養蚕技法に改良を重ね、空気を循環させて蚕を風通しの良い状態で飼育する養蚕技法「清涼育」(せいりょういく)を確立しました。1863年に建てられた母屋兼蚕室は、屋根の上に「櫓」(やぐら)と呼ばれる小屋根を設け、櫓にある小窓と蚕室の四方の窓を開閉することにより蚕室内の環境を調整する構造で、以後全国の養蚕建物の模範となりました。母屋兼蚕室が現存し、蚕室、桑場、種蔵などの遺構が残り、近代養蚕業の技術展開を知る上で重要であることから、平成24年9月19日に国の史跡に指定されました。

 

 

 田島弥平は、明治5年に「養蚕新論」、同12年には「続養蚕新論」を出版して清涼育を体系的に完成させ、また、全国から多くの養蚕伝習生を受け入れて清涼育の普及に努めました。絹産業遺産群の一つである藤岡市の「高山社跡」の創設者・高山長五郎が明治16年に確立した通風と温湿度管理を調和させた「静温育」にもその長所が取り入れられています。写真は、新地(しんち)地区養蚕農家群で、田島弥平旧宅を含むこの辺りには、櫓を載せた2階建ての養蚕農家がたくさんありました。

 

 

 田島弥平は蚕種販売にも精力を注ぎ、明治5年には、隣接する埼玉県深谷市の出身で「近代日本資本主義経済の父」と呼ばれ富岡製糸場の建設にも尽力した渋沢栄一の勧めで島村勧業会社を設立し、同12年にはイタリアへの直(じき)輸出を行いました。直輸出とは、商社を通さず田島弥平自らイタリアへ渡りミラノを拠点として蚕種を直接販売したもので、計4回行われました。また、こうした直輸出により、島村は海外の文化をいち早く取り入れ、同30年にはその象徴である「日本基督教団島村教会」が建てられました。

 

 

 田島弥平は明治31年に亡くなりますが、島村の蚕種業は発展を続け、昭和16年には島村蚕種共同施設組合が結成され、昭和22年には蚕種製造所が設置されて最盛期を迎えます。その後、化学繊維が普及すると蚕種農家は急速に減少し、昭和63年には島村蚕種組合が解散して島村における蚕種業は終焉を迎えました。現在、製造所の跡地は住宅地となり、桑の木が植えられ「島村蚕種業績碑」が建っています。

 

 

 島村の東隣りの平塚(伊勢崎市境平塚)の利根川と広瀬川の合流点北側には、江戸時代に足尾銅山の銅の輸送に使われた「銅山街道」の終点の平塚河岸があり、当初は銅の積出河岸として、その後、浅間山の噴火による泥流で水深が浅くなった平塚より上流への船荷の積替河岸として繁栄しました。新田次郎の小説「八甲田山死の彷徨」のモデルとなった弘前歩兵第31連隊の福島大尉は、平塚の船問屋の生まれで、雪中行軍の3年後の明治38年に日露戦争で戦死します。写真は平塚の利根川河畔の「天人寺」(てんじんじ)で、中央に写っているのが、大尉の遺言によって故郷の地に建てられた墓です。

 

 (参考図書等:田島弥平旧宅案内所、「群馬県の歴史散歩」(山川出版社)、観光パンフレット、現地の説明板等)