本部長の群馬紀行
第29回 伊香保温泉とその周辺の史跡

 皆様、こんにちは。
 最近は雨の日が多いようですが、いよいよ本格的な紅葉シーズンを迎えます。

 来月から中学生を対象とした高等工科学校生徒の試験受付が始まりますので、たくさんの応募をお待ちしています。

 

 さて、群馬紀行第29回は、前橋市内から約20km、40分の榛名山中腹にあり、上毛かるた「伊香保温泉 日本の名湯」で有名な伊香保温泉とその周辺の史跡をご紹介します。

 

 

 五街道に次ぐ主要道である「三国街道」は、中山道の高崎から分岐して金古、渋川に至りますが、中山道の本庄から分岐して利根川沿いを玉村、総社、大久保を経て渋川で三国街道に合流する道が三国街道の脇往還で、主に佐渡金山奉行の往来や金の輸送に利用されたことから「佐渡街道」又は「佐渡奉行道」と呼ばれました。この佐渡街道の大久保宿の先(吉岡町大久保の駒寄小学校脇)には「右えちごしぶ川、左いかほみずさわ」と刻まれた「佐渡街道の道しるべ」があり、ここからかつての「伊香保道」が分岐しています。

 

 

 伊香保道は、江戸幕府が政治・経済目的で整備した道とは異なり、中世の頃から坂東三十三観音札巡りの順路や伊香保への入湯の道として多くの旅人が往来していました。伊香保道の野田宿は江戸時代初期に宿場町として整備され、入口付近で三国街道と交差しています。写真は、宿場の中央に位置して本陣のあった「森田家」付近(吉岡町上野田)ですが、当時は旅籠、問屋、酒屋、駕籠屋など多くの店が軒を並べ、これらの名残りが今日でも屋号として残っています。

 

 

 

 水澤寺(渋川市伊香保町水沢)は、伊香保温泉の手前約3kmの水沢山の麓にあり、坂東三十三観音札所中第十六番で、一般には「水沢観音」の名で親しまれています。推古天皇の時代(592〜628年)に上野国司の菩提寺として建立され、その後、山岳信仰と結びついて山麓の人々の信仰の中心になりました。境内には江戸時代の建築である観音堂、六角二重塔、鐘楼などが建ち並び、榛名山や伊香保温泉の道すがら多くの人が訪れています。ここから1kmほどの山中には落差72m、榛名山随一の「船尾滝」(ふなおだき)があります。

 

 

 

 伊香保温泉のシンボルである石段が誕生したのは1576年頃で、長篠の戦いで織田・徳川連合軍に敗れた武田勝頼が、多くの負傷者を治療するため、源泉を各浴舎に引湯する目的で、この地を治めていた真田昌幸に命じて造らせたものだと言われています。これは、日本で初めての温泉都市計画であり、湯元より温泉を導いて石段の中央に湯樋を造り、左右に整然と区画された浴舎に効率よく温泉が配られました。

 

 

 

 江戸時代になると、子宝の湯として知られて多くの女性湯治客が訪れ、草津温泉とともに非常に繁栄しますが、物見遊山の旅を取り締まった幕府も、信仰のための社寺参拝と医療のための湯治については寛容であったことが理由のようです。他方、伊香保道は三国街道の脇往還でもあり、三国街道が吾妻川の増水で通行できない時にも伊香保を経て上流に回れば渡河することができたため、北国への通行を取り締まる目的で1631年に「伊香保口留番所」が石段入口付近に設置されました。

 

 

 平成22年に延長された石段は現在365段あり、1段目の標高は715m、365段目は783mで標高差は68mもあります。最上段には、上野十二社の一つで「貫前神社」(ぬきさきじんじゃ、富岡市一宮)、「赤城神社」(前橋市富士見町)に次ぐ三の宮である「伊香保神社」があります。かつて榛名山東麓の人々は榛名山を伊賀保山と称して伊賀保神(男体神、女体神)を祀りましたが、このうち男体神は山に登って伊賀保の湯を守る薬師如来となり山宮の伊香保神社に祀られ、女体神は里に下って十一面観音となり里宮の三宮神社(吉岡町大久保)に祀られたそうです。

 

 

 

 伊香保神社の裏手から500mほど進んだ所が湯元源泉地で、付近には飲泉所やその場所を示す「湯元呑湯道標」があります。写真は源泉の噴出口で、群馬紀行第25回「草津温泉」にも登場したベルツの胸像が建っています。ベルツは日本各地の温泉を視察し、明治13年に伊香保温泉をモデルに温泉地としての必要な改善策を示した「日本鉱泉論」を政府に提出し、伊香保は、それに基づいた町の整備、衛生状態の改善、飲泉所の設置などが行われ、今日の温泉街の基本となりました。

 

 

 小説家「徳富蘆花」(とくとみろか)は熊本県の出身で、兄で後のジャーナリスト・徳富蘇峰(そほう)とともに新島襄が創設した同志社英学校で学び、その後、兄の経営する民友社に入社し、明治31年に伊香保を舞台にした悲恋の小説「不如帰」(ほととぎす)を国民新聞に連載して好評を博し、伊香保の名を全国に広めました。伊香保をこよなく愛した蘆花は、老補の千明仁泉亭(ちぎらじんせんてい)を常宿として度々訪れ、昭和2年に同宿で亡くなりますが、石段入口付近にある「徳富蘆花記念文学館」の敷地内には「終焉の間」が移築されています。千明氏は古くから湯元を持ち、湯元源泉地近くの千明旅館跡は伊香保温泉発祥の地とされています。

 

 

 

 明治43年には渋川・伊香保間に「伊香保電気軌道」が開通し、標高差524m、最大勾配51.7‰(碓氷峠鉄道は66.7‰)の軌道を路面電車(通称、チンチン電車)が87ヶ所のカーブと数ヶ所のスイッチバック方式を併用して登りました。昭和24年のピーク時には、前橋線と高崎線を合わせ年間495万人の利用客があったそうですが、バス路線が整備され、昭和31年に廃線となりました。伊香保の「峠の公園」には、軌道敷と当時の車両が展示されています。

 

 

 (参考図書等:伊香保温泉資料館、徳富蘆花記念文学館、「群馬県の歴史散歩」(山川出版社)、「榛名学」(上毛新聞社)、観光パンフレット、現地の説明板等)