本部長の群馬紀行
第28回 館林城跡とその周辺の史跡

 皆様、こんにちは。
 
10月も中旬になり、朝晩の寒さを感じるようになりました。

 今週末は、自衛官候補生と防衛医科大学校看護学科の試験を実施しますが、受験される方のご健闘をお祈りします。

 

 さて、群馬紀行第28回は、前橋市内から約60km、1時間40分の館林市にある館林城跡とその周辺の史跡をご紹介します。

 

 館林城は別名「尾曳城」と呼ばれ、次のような築城伝説があります。城沼(じょうぬま)南岸の大袋城主・赤井照光が主筋の舞木城(千代田町)への年始の途上に子狐を助け、その親狐が報恩のために城沼北岸の要害地を案内するとして尾を曳きながら縄張りを先導して夜明けに曳き終わると「主人の稲荷神は永く城下を守護するので築城の上は社殿を造り給い」と言って姿を消しました。照光はその縄張りに従って1532年に築城し、城の鬼門の方向に「尾曳稲荷神社」(館林市尾曳町)、曳き始めた所に「初引稲荷神社」(館林市本町)、曳き終えた所に「夜明稲荷神社」(館林市朝日町、写真)を祀ったそうです。

 

 

 戦国時代の館林城は、上杉氏、武田氏、北条氏の三つ巴の攻防の中で長尾氏や北条氏が支配しますが、1590年、徳川家康の関東転封により榊原康政が10万石の城主となります。康政は、常陸国54万石の大名で豊臣方の佐竹氏を牽制するため、後に館林における三大事業と言われた城郭整備、河川築堤、道路建設を急ぎました。写真は、かつて城下町(館林市本町付近)を南北に縦断する軍用道路(日光脇街道)として使われた道で、右折すると大手門(城の入口)跡があります。右に案内板が見えていますが、城下町の旧町名とその由来を示したもので、全部で28か所もあります。

 

 

 館林城は城沼を自然の要害とする平城で、沼を城の東側の外堀とし、沼に突出した低地上に本丸、二の丸、三の丸、八幡郭、南郭を置き、これを取り囲むように稲荷郭、外郭、総郭を構え、西側台地に城下町を配置し、その全てを土塁や堀で囲んでいました。写真右は本丸の土塁で、当時はこの辺りまで沼が入り込んでいたようですが、現在は「向井千秋記念子ども科学館」などがあり、その建設工事の際に発掘された溝状遺構(水路)が復元・移設されています。

 

 

 1600年の関ヶ原の戦いで、康政は家康の三男・秀忠に従い中山道を西上しますが、真田昌幸の軍略により足止めされます。遅参した秀忠は家康の激怒を買いますが、康政の必死の仲介で許されたと言われています。徳川四天王とまで称された武断派の康政ですが、文治派として次第に台頭する本多正信らに遠慮して、関ヶ原の戦い後は城に引き籠ったまま1606年に亡くなります。榊原氏の菩提寺である「善導寺」(館林市楠木町)には、康政や2代城主・康勝など5基の墓石が並んでいます。

 

 

 国の名勝に指定されている「県立つつじヶ岡公園」は城沼の南岸に位置し、樹齢800年を超える古木もあり、歴代城主が手厚く保護してきました。また、その発祥には榊原氏が深く関わっており、康政は、側室の妬みに堪えかねて城沼に身を投じた愛妾「お辻」を弔うため、その名に因みつつじ一株をこの地に植えたと言われています。また3代城主・忠次は、花見塚(太田市武蔵島町)にあった新田義貞の愛妾「勾当内侍」遺愛のつつじをこの地に移したとも言われています。写真は、公園から城沼の対岸を写したもので、正面に見える「善長寺」(館林市当郷町)には、「お辻」の供養塔や忠次の母「祥室院」の墓があります。

 

 

 1661年、3代将軍家光の第4子・綱吉は館林25万石の城主となり、1680年に兄・家綱の後を継いで5代将軍となるまでの19年間在任し「館林宰相」と呼ばれました。入封に際し2万両が下付され、館林城は25万石の城主に相応しい城に修築されましたが、在城したのは日光社参の帰途に立ち寄った5日間だけだったそうです。写真右は、1665年に江戸の石工が館林城の修築記念に尾曳稲荷神社に奉納した「手水鉢」です。

 

 

 1683年、綱吉の後を継いだ子の徳松がわずか5歳で病死すると館林城は廃城となり荒廃しますが、綱吉の兄で「甲府宰相」と呼ばれた徳川綱重の第2子・越智松平清武が1707年に5万石の城主となり、5千両を下付されて城を再築します。江戸時代の260年間、館林城には7家の親藩・譜代大名が城主となって明治維新を迎えました。写真は、城内や城下町に時を知らせるために綱吉が鋳造させた鐘で、廃城に際し「応声寺」(館林市西本町)に下げ渡されました。

 

 館林城は、1674年(明治7年)に建物の大半が焼失してしまいますが、土塁の一部は残存しており、昭和57年には三の丸の「土橋門」が復元されました。三の丸への正門である「千眼門」に対して、土橋門は通用門として使用されましたが、門から鉤(かぎ)の手状に延びる土塁は、当時から残存している貴重な遺構で、開門時に三の丸の内部を見通せないように工夫されたものです。

 

 (参考図書等:「図説館林・邑楽の歴史」(あかぎ出版)、「まんが館林の歴史」(館林市)、館林市第一資料館、館林市HP、観光パンフレット、現地の説明板等)