本部長の群馬紀行
第27回 利根川・渡良瀬川合流域の水場景観とその周辺の史跡

 皆様、こんにちは。
 
大型の台風が通過しましたが、幸い、県内の人的被害はありませんでした。

 航空学生の第1次試験に合格された皆様、おめでとうございます。2次試験のご健闘をお祈りします。

 

 さて、群馬紀行第27回は、利根川・渡良瀬川合流域の水場景観とその周辺の史跡をご紹介します。

 

 板倉町は、前橋市内から約65km、1時間45分の群馬県東端に位置し、北を渡良瀬川、南を利根川に挟まれ、その合流点には低湿地(水場)が広がっており、標高は14〜25mで県内で最も低い土地となっています。町の中心にある雷電神社は、関東地方に点在する雷電神社の総本宮で、葵の御紋の使用が許可され、境内には県内最古の神社建築として国の重要文化財に指定された「末社八幡宮稲荷神社」があります。今は小さな沼が残るだけですが、かつては万葉集に登場する「伊奈良沼」と呼ばれた広大な沼があり、昔、聖徳太子が天の神の声を聞いて沼の浮島に祠を建ててお祀りしたのが始まりと伝えられています。

 

 

 水場が広がるこの辺りは古代より水害多発地帯で、中世から近世にかけて大規模な治水事業がなされ、生活を営むための様々な工夫がなされてきました。これらの営みの基軸となった景観が「利根川・渡良瀬川合流域の水場景観」として平成23年8月に関東で初めて国の重要文化的景観に選定されました。写真は、水郷文化を体験するイベントとして、町内を流れる矢田川めぐりとして運行されている「揚舟」(あげぶね)です。

 

 

 

 

 揚舟は、普段は家の軒や納屋の梁に吊り下げておいて、水害の時に降ろして人や家畜、穀物等を近くの高台に運びます。一方、水害の時に人や家畜、穀物等を守るために造られた建物を「水塚」(みつか)といい、いずれも水郷文化を象徴する景観です。写真は板倉町海老瀬の民家にある水塚ですが、土盛をして母屋よりも高い場所に建てられ、1階が貯蔵場所で2階が居住場所となっています。

 

 

 

 治水上、大きな役割を果たしている渡良瀬遊水地は、群馬、栃木、埼玉、茨城の4県4市2町にまたがる広大な遊水地で、面積は東京ドームの約700倍もあります。本州以南では最大のヨシ原を擁する低層湿原で植物の絶滅危惧種の宝庫となっており、板倉町側にある「わたらせ自然館」で学習することができます。ここにはかつて、渡良瀬川の洪水の度に足尾銅山の鉱毒被害に遭っていた栃木県谷中村がありましたが、明治39年に廃村とし、その後遊水地化されました。写真は、遊水地の中にある渡良瀬貯水池(谷中湖)です。

 

 

 

 明和町は板倉町の西に位置し、北を矢田川、南を利根川に挟まれた東西に細長い平坦地で、県内では東京に最も近い所です。徳川四天王の一人で1590年の徳川家康の関東転封に伴い館林10万石に封ぜられた榊原康政は、利根川・渡良瀬川に堤防を築き、城下町の整備拡張を行い、城下町を南北に通じる軍用道路を拓きました。この道路は、江戸時代には中山道の鴻巣宿から分かれて、忍、川俣、館林などの宿を経て日光例弊使道の天明宿に合流する日光への参詣道としても利用され、日光街道(国道4号)に対して日光脇街道(旧国道122号)と呼ばれました。写真は、明和町川俣の利根川堤防から見た日光脇街道ですが、ここにはかつて川俣宿と坂東十六渡津の一つであった川俣河岸があり、現在は左手前の陣屋跡などに面影を残すだけですが、当時は大いに繁栄したそうです。

 

 

 

 板倉町同様、明和町の歴史も水害の歴史であり、江戸時代には3年に一度は水害に見舞われたと言われ、農民は水神様を奉り、水塚を造り、軒下には揚舟を吊っていました。写真は、明和町南大島の民家の倉庫に現在も吊られている揚舟で、民家のご主人にその使用例などを教えていただきました。この民家の庭先には1833年に建てられた「三五詠歌碑」があり、水害の状況を記録した碑文と和歌が刻まれ、人々の疲弊した暮らしぶりや水害復興への道のりが示されています。

 

 

 また、文政4年(1823年)から数年続いた水害の際には、利根川対岸の武州幡羅(はたら)郡下奈良村(埼玉県熊谷市)の名主・吉田市右衛門ら村民が、私財を投じて難民救済や復興にあたり、これに感謝した須賀村(明和町須賀)の農民がその徳を永久に伝えるため、1842年に利根川堤防上に「奈良石」を建てました。

 

 

 

 明治中頃、足尾銅山から流出する鉱毒に悩む渡良瀬川流域の農民は、操業停止や補償を求めて再三、上京請願(押出し)を決行し、明治31年9月には1万余人が第3回押出しを決行しますが、栃木県選出衆議院議員・田中正造の説得により帰村します。明治33年2月13日、約2,500人が第4回押出しを決行し、これを阻止するため政府から派遣された約300人の警官隊と利根川の川俣宿で衝突し、多数の農民が捕縛される流血の大惨事となりました。当時の佐貫村長や村民は、炊き出しを行い、負傷した農民を手厚く介護したそうです。その後、政府の措置に失望した田中正造は、議員を辞職して天皇に直訴し、以後谷中村遊水地化反対闘争を続けることになります。写真は、川俣宿の衝突地に建つ川俣事件記念碑です。

 

 (参考図書等:板倉町HP、明和町HP、観光パンフレット、現地の説明板等)