本部長の群馬紀行
第26回 谷川岳とその周辺

 皆様、こんにちは。
 
秋本番になり紅葉の山は大勢の登山者で賑わっていますが、御嶽山の突然の噴火は戦後最悪の火山災害となってしまいました。本紀行でも県内の活火山を取り上げましたが、改めて火山噴火の怖さを思い知らされました。

 自衛官候補生等の各試験を継続的に実施していますが、受験された方の合格とこれから受験される方のご健闘をお祈りします。

 

 さて、群馬紀行第26回は、みなかみ町と長野県湯沢町の県境にある谷川岳とその周辺をご紹介します。

 

 日本百名山の一つである谷川岳は、清水峠から三国峠に連なる上越国境の谷川連峰の中心的な存在で、「トマの耳」「オキの耳」と呼ばれる二つのピークを持つ双耳峰です。標高2,000mにも満たない山ですが、日本屈指の岩場を有し、太平洋側と日本海側を分ける分水嶺に位置しているため天候の変化が激しく豪雪地帯でもあることから、変幻複雑な性格を持っています。前橋市内から約70km、1時間30分の谷川岳ロープウェー土合口駅(山麓駅)に駐車し、天神平スキー場がある標高1,319mの天神平駅(山頂駅)に尾根道を歩く一般的な登山口があります。

 

 

 樹林の中の登山道を進み、天神尾根に出て中間地点の熊穴沢避難小屋を超えると次第に急登になります。谷川岳は、その厳しい気象環境から1,500m付近が森林限界となっており、「天狗の留まり場」などの見晴らしの良い岩場の登山道が続きます。やがて山頂南面直下の「肩の小屋」に出ますが、紅葉が始まった好天の日に、天神尾根から見る谷川岳の南面は、色とりどりの絨毯を敷き詰めたように綺麗です。ここから山頂まで5分程度で、登山口から山頂までは3.9km、約1時間半でした。

 

 

 「トマ」は手前を意味し、「オキ」は奥を意味するそうです。先に到達するピークが標高1,963mのトマの耳でオキの耳よりわずかに標高は低いのですが、三角点があるため谷川岳の本峰(山頂)とされています。狭い山頂の東側は断崖絶壁となってマチガ沢に落ち込んでいて足がすくみますが、周りを見渡すと360度の大パノラマが広がります。写真、標柱右のピークは武尊山(手前)と日光白根山(奥)、標柱左のピークは至仏山(手前)と燧ヶ岳(奥)で、いずれも日本百名山です。

 

 

 トマの耳から岩場を下って登り返すと標高1,977mのオキの耳となります。オキの耳は、マチガ沢と一ノ倉沢を分ける尾根を派生するピークで、西側には高山植物の花畑が広がり、東側には目の眩むような一ノ倉沢の大絶壁が広がります。写真は、オキの耳(左)とトマの耳(右)ですが、遥か遠方左側に赤城山、右側に榛名山が望め、双眼鏡を使うと榛名山の上に富士山が確認できました。オキの耳の左下には、天神平駅と天神平スキー場が見えています。

 

 

 下山後、土合口駅から先の国道291号を歩いてみました。この道は、みなかみ町湯檜曽(ゆびそ)から谷川連峰の東麓を縫って清水峠を越え、新潟県南魚沼市清水に至る上越を結ぶ最短ルートで、かつて関東進出を図る上杉謙信が通ったとも言われますが、江戸時代にはもう一つの上越道である三国街道が本街道に指定されたため閉鎖されます。明治18年に馬車が通る清水峠越新道として復活し、盛大な開通式が行われたそうですが、相次ぐ雪崩や土砂崩れのため次第に廃れ、現在は土合口駅から先の一般車両の通行は規制されています。

 

 

 「出合い」とは沢の支流が主流に流れ込む場所を言いますが、時代や自然環境に翻弄された国道291号は、谷川岳を代表するマチガ沢、一ノ倉沢、幽ノ沢、芝倉沢の各出合いを2〜4時間で巡るトレッキングコースに生まれ変わりました。かつてマチガ沢出合いには宿があり、越後から清水峠道を疲れて下って来た旅人が宿の灯火を目にして「ああ、街が見える。」と喜んで発した言葉がその由来とされています。また、この辺りの方言で岩壁を「クラ」と言い、日本アルプスの剱岳や穂高岳とともに日本三大岩場の一つに数えられた谷川岳随一の岩壁は、一ノ倉と名付けられたそうです。

 

 

 谷川岳は古くから「信仰の山」として登られていましたが、昭和6年に上越線の清水トンネルが開通して夜行日帰り登山が可能になると「近代スポーツの山」に変貌し、多くの登山者を惹きつける人気の山となりました。清水トンネルは、上毛かるた「ループで名高い清水トンネル」のとおり、ループ線で高度を稼いでトンネル区間を短縮しましたが、昭和42年に開通した下り線の新清水トンネルは、地下を貫く長いトンネルとなりました。このため、JR土合(どあい)駅の下り線ホームは地下約70mに建設され、乗客は486段の階段を登って地上に出るという「日本一のモグラ駅」となっています。

 

 

 変幻複雑な谷川岳の魅力に惹かれた登山者が急増するとともに、岩場からの墜落、雪崩、落石、凍死などによる死亡者が増加して「魔の山」などとも呼ばれるようになり、昭和6年に遭難事故記録の統計が始まって以来約800人の死亡者を数えています。これは、単独の山の死亡者数としては群を抜いており、日本のみならず世界のワースト記録としてギネス認定され、8,000m級全14座の合計死亡者数より多いとも言われます。特に昭和41年には37人もの命が失われて社会問題となり、翌年、群馬県谷川岳遭難防止条例が施行されました。写真は土合駅近くの谷川岳慰霊公園ですが、山の鎮(しずめ)の像や谷川岳で亡くなった人の氏名が刻まれた墓碑銘版などがあり、毎年7月の第一日曜日に山開きが行われています。

 

 (参考図書等:「地球の風・谷川岳」(日地出版)、「上州の旧街道いま・昔」(山内種俊著)、観光パンフレット、現地の説明板等)