本部長の群馬紀行
第25回 草津白根山と草津温泉周辺

 皆様、こんにちは。
 
爽やかな秋の空気が気持ち良く感じられ、山では紅葉が始まっています。

 先日、一般曹候補生、航空学生を受験された方の第1次試験合格を祈っています。なお、防衛大学校、防衛医科大学校(医学科・看護学科)学生の試験は受付期限(9月30日)が迫っています。公務員や自衛官という職業に関心のある方、医師・看護師を目指す方の多数の応募をお待ちしています。

 

 さて、群馬紀行第25回は、前橋市内から約80km、2時間の草津白根山と日本三大名泉の一つである草津温泉周辺をご紹介します。

 

 日本百名山の一つである草津白根山は、白根山、逢ノ峰、本白根山の総称で、明治以降も頻繁に噴火している活火山です。国道292号は長野原町を起点として草津白根山を横断して長野県側の志賀草津高原ルートに通じていますが、写真は、群馬県中之条町と長野県山ノ内町の県境のやや手前にある渋峠(標高2,172mの日本国道最高地点)から見た白根山(手前の砂礫の山)と本白根山(奥の樹木の山)で、左下に草津町の中心部が見えています。この先に、建物の中央に県境がある「渋峠ホテル」がありますが、そこで日本国道最高地点到達証明書(100円)を発行してくれます。

 

 

 現在、白根山は警戒レベルが引き上げられ、「湯釜」と呼ばれる噴火口から半径1km以内は立入禁止及び駐停車禁止となっており、本白根山の登山拠点でもある噴火口付近の駐車場も使用禁止です。本白根山は安全に登山ができますが、草津国際スキー場の白根火山ロープウェーの山麓駅に駐車し、ロープウェーに乗って山頂駅からのアプローチとなります。写真は標高2,027mの山頂駅からの景色ですが、右奥に榛名山、左奥に赤城山を望み、眼下に草津温泉街が広がります。

 

 

 本白根山は白根山より古い火山で、草津白根山の山体の大部分は本白根山の噴火溶岩で形成されました。砂礫の白根山とは対照的に、亜高山帯の針葉樹に覆われた自然豊かな元白根山の登山道を登ること約40分で「から釜」と呼ばれる巨大な噴火口跡が見渡せる地点に到着します。標高2,165mの山頂は有毒ガス発生の恐れがあるため立入禁止となっていますが、噴火口跡の周遊コースを巡り、標高2,150mのコース最高地点や展望所からのパノラマを楽しむことができます。

 

 

 日本武尊(ヤマトタケルノミコト)や源頼朝の開湯伝説を持ち、上毛かるた「草津よいとこ薬の温泉」で有名な草津温泉は、草津白根山の中腹、標高約1,200mの高地にあます。冬の寒気が厳しく積雪も多いため、明治の中頃までは、春から秋まで温泉宿を開業し、冬は麓の六合村(くにむら。中之条町小雨)などに移住する「冬住み」という生活制度があったそうです。写真は標高1,180mにある草津町役場ですが、市町村役場の標高としては1,185mの長野県川上村役場に次ぐ高さです。その後方の建物は草津温泉バスターミナルで、3階に草津町温泉資料館があり、草津温泉の全てを学習することができます。

 

 

 草津温泉の湧出量は日本一で、5寸釘を10日で溶かすほどの強い酸性度による殺菌力(治癒能力)があるため、戦国時代には多くの武将が訪れ、江戸時代には年間1万人を超える湯治客で賑わったそうです。また、熱い源泉の効能を薄めずに入浴する方法として、六尺板を入れてかき混ぜ、48度位まで下げたところで3分間に限って集団で入浴する「湯もみ」と「時間湯」が考案されました。写真は、河原一面に温泉が湧き出し湯川となって流れる「西(さい)の河原公園」で、遊歩道脇にドイツ人医師ベルツとスクリバの胸像が建っています。明治9年に東京帝国大学医学部教授として来日したベルツは、在日30年の間、草津温泉の優れた効能と環境に魅せられ、時間湯の治療効果を学会に発表するなどして保養地としての草津を広く世界に紹介しました。

 

 

 

 温泉街の中心に位置する「湯畑(ゆばたけ)」は、草津温泉のシンボル的な源泉で、高温の源泉を放冷地の広場で木製の桶に掛け流して温度を下げ、共同浴場や旅館の内湯として利用されています。江戸時代には8代将軍吉宗がここから汲み上げた温泉を江戸城に運ばせて入浴したことから「御汲上げの湯」と呼ばれていましたが、明治になって木桶に堆積する沈殿物を「湯の花」として商品化するようになったため、湯の花が採れる所=湯の畑=湯畑と呼ばれるようになったそうです。

 

 

 草津白根山から流れる強酸性の湯川、大沢川、谷沢川は吾妻川に合流しますが、かつての吾妻川は「死の川」と言われ、魚も生息できず、飲料水や農業用水としても利用できず、護岸のコンクリートも使えなかったそうです。このため、川に石灰を入れて中和させるための工場と中和生成物を貯めるための品木ダム(上州湯の湖)が昭和40年に建設され、今では魚が生息する清流となりました。なお、ダムに沈殿した中和生成物は浚渫船によって浚渫し、土捨て場には芝生などを植えて自然の状態に戻しているそうです。

 

 

 草津から中之条又は沼田方面に出る道は、国道292号と吾妻川沿いの国道145号が一般的ですが、深い渓谷沿いの道路建設が困難だった昔は、麓の六合村から暮坂(くれさか)峠を越えて中之条方面に出る暮坂峠道が多く使われました。現在は日本ロマンチック街道に指定さたこの道は、戦国時代には真田氏が信州・上田と沼田を結ぶ軍用道路として利用し、江戸時代には草津、沢渡(さわたり)、四万(しま)、伊香保を結ぶ温泉街道として賑い、とりわけ沢渡温泉は無色透明で肌触りが良いため、「荒い湯」と言われた草津温泉の湯ただれを治す「仕上げの湯」として利用する湯治客が多かったそうです。放浪の歌人・若山牧水(ぼくすい)は、大正11年10月、草津温泉から沢渡温泉へ向かう際に暮坂峠を通り、素晴らしい景観に感動して名作「枯野の旅」を残しました。写真は、標高1,086mの暮坂峠に建つ若山牧水詩碑です。

 

 

 (参考図書等:草津町温泉資料館、「群馬県の歴史散歩」(山川出版社)、「上州の旧街道いま・昔」(山内種俊著)、観光パンフレット、現地の説明板等)