本部長の群馬紀行
第23回 浅間山の「鬼押出し」と関連の史跡

 皆様、こんにちは。
 
秋が徐々に深まっているようですが、季節の変わり目には、体調管理に気をつけて下さい。

 自衛官候補生(女子)、一般曹候補生、航空学生の各試験の受付けは終了しました。たくさんの応募ありがとうございました。引き続き、防衛大学校、防衛医科大学校(医学科・看護学科)学生の試験の受付けを行っていますので、公務員や自衛官という職業に関心のある方、医師・看護師を目指す方の多数の応募をお待ちしています。

 

 さて、群馬紀行第23回は、前橋市内から約80km、2時間の距離にあり、上毛かるた「浅間のいたずら鬼の押出し」でも有名な、浅間山の「鬼押出し」と関連の史跡をご紹介します。

 

 群馬県と長野県の県境にある標高2,568mの浅間山は、現在でも活発な火山活動が観測されている日本有数の活火山で、日本書紀(685年)にも噴火の記録が残っており、特に平安時代の1108年と江戸時代の1783年(天明3年)の大噴火が有名です。写真左が浅間山、右はその外輪山で標高2,405mの黒班山(くろふやま)ですが、鬼押出し側から見ると、黒班山が観音様の顔、浅間山はお腹に手を載せている姿に見える山並みから「寝観音(ねかんのん)」とも呼ばれているそうです。

 

 鬼押出しは、1783年の大噴火の最後に噴出した溶岩が冷えて固まり、北側(群馬県側)の山麓に形成されたもので、その範囲は北方向に約5.8km、幅800m〜2kmに及ぶそうです。名称の由来ははっきりしないようですが、鬼が暴れて溶岩を押し出すような激しい噴火だったのでしょう。鬼押出しの見学には、長野原町営の「浅間園・浅間火山博物館」と民営の「鬼押出し園」という二つの施設がありますが、写真は「鬼押出し園」の様子です。

 

 

 1783年当時、浅間山の北側に位置する鎌原(かんばら)村(嬬恋村鎌原)は、中山道の脇往還として高崎から大戸、須賀尾、鎌原、大笹などを通り、鳥居峠に抜ける信州街道の宿場町として栄えていたそうです。浅間山は同年5月頃から小規模の噴火を繰り返していましたが、8月5日午前11時頃、突如大量の火砕流が噴出し、土砂や水を巻き込んだ土石なだれと化し、時速100kmとも言われる猛スピードで鎌原村を直撃しました。当時村人は、焼け石が空から降ることを恐れていましたが、土石なだれには全くの無防備だった上、写真のとおり、森に囲まれた村からは浅間山が見通せなかったようです。

 

 

 この一瞬の土石なだれで、人口570人の村人のうち、高台にあった鎌原観音堂の境内に逃げ込んだ人と村外にいた93人を除く477人が犠牲となりました。観音堂の石段は50段ですが、上の15段を残して下の35段は埋没したそうです。後年、発掘調査をしたところ、下の石段から折り重なって倒れていた女性の2遺体が発見されました。

 

 

 

 土石なだれは吾妻川に達し天然のダムとなって一度は堰き止められますが決壊し、泥流となって利根川下流の村々をも襲い、約1,500人が犠牲となったそうです。明治43年に吾妻川の約25km下流の東吾妻町の河原で1基の石標が発見されましたが、土石なだれで埋没した鎌原村の延命寺の門石と判明し、観音堂や供養碑とともに当時の様子を伝える「天明三年浅間やけ遺跡」の一つとなっています。

 

 

 生存者の93人は、近隣の村々の手厚い援助を受けながら結束して村の復興に努め、1869年(明治2年)には現在の鎌原地区を形成する主だった家屋が再建されたそうです。写真は、鎌原地区の南側から北側の浅間山方向を写したものですが、田畑の中には現在もなお、土石なだれで運ばれてきた巨大な石がいくつも残っていました。

 

 

 

 観音堂の近くには3階建の立派な「嬬恋郷土資料館」があり、埋没した鎌原村から発掘された品々などが展示され、映像コーナーでは天明3年の悲劇や浅間山の自然を学習することができるほか、3階の展望室からは、周囲の雄大な景色や現在の鎌原地区の家並みを見ることができます。

 

 

 

 最後の写真は、前橋市昭和町の岩神(いわがみ)稲荷神社内にある国の天然記念物「岩神の飛石(とびいし)」です。周囲約60m、高さ約10mで、地下にはまだ数m埋もれているそうですが、この巨石の起源を巡って、10万年以上前の赤城山の噴火で利根川の坂東橋(渋川市)付近に押し出されたものが2万4千年前の浅間山の噴火による泥流で押し流されてきたとする説と、浅間山の噴火により吾妻川、利根川を経て直接押し流されてきたとする二説があるそうです。いずれにしても、火山の噴火の猛威を思い知らされます。

 

 (参考図書等:嬬恋郷土資料館、「群馬県の歴史散歩」(山川出版社)、観光パンフレット、現地の説明板等)