本部長の群馬紀行
第22回 赤岩渡船とその周辺の史跡

 皆様、こんにちは。
 
9月になり、朝晩はずいぶん涼しくなりました。季節の変わり目には、体調管理に気をつけて下さい。

 防衛大学校や防衛医科大学校(医学科・看護学科)学生の試験の受付けが始まりましたが、自衛官候補生(女子)、一般曹候補生、航空学生の各試験の受付期限(9月9日)が迫ってきました。公務員や自衛官という職業に関心のある方、医師・看護師を目指す方の多数の応募を最後までお待ちしています。

 

 さて、群馬紀行第22回は、前橋市内から約45km、1時間30分ほどの距離にある邑楽(おうら)郡千代田町の赤岩渡船とその周辺の史跡をご紹介します。

 

 赤岩渡船は、利根川に残る3か所の渡船(茨城県の小堀渡船、伊勢崎市の島村渡船)の一つで、県道83号(熊谷館林線)の一部として千代田町赤岩から利根川を挟んだ対岸の埼玉県熊谷市葛和田を動力船で結んでいます。県道の一部なので料金は無料、自転車やバイクも乗船可能です。船頭さんがいる小屋は赤岩側にあるので、葛和田側から乗る時は、川岸に置かれた旗を振って船を呼ぶそうです。写真は、赤岩地区と県道83号です。

 

 

 赤岩渡船の歴史は古く、かつて上杉謙信も軍を率いて渡河したそうです。赤岩は、水深が深いなどの立地条件に恵まれていたため、江戸時代には大型船の終点として賑わい、坂東十六渡津(渡し場)の一つにも数えられ、宿場町として栄えました。明治時代になると鉄道などの交通機関の発達で急速に衰退しますが、渡船場としての機能だけは残り、利根川を渡る橋のない公道として、現在も毎年1万6千人以上の人が利用しているそうです。

 

 

 

 現在は、県の委託事業として千代田町が運行管理をしており、運行案内には「渡船は対岸に渡るための船です。遊覧船ではありません。」とありますが、船頭さんにお願いして乗せてもらいました。付近は水上レジャーのメッカでグライダーの滑空場もあるため川も空も賑やかで、約400mの川幅を心地良い川風を受けながら5分くらいで渡ることができました。

 

 

 赤岩渡船から県道83号を内陸方向に300mほど進むと814年に弘法大師が開いたとされる赤岩山光恩寺があります。境内には、弘法大師の爪引き地蔵の名で親しまれる「地蔵菩薩画像板碑」(写真にもかすかに映っています。)、鎌倉時代初期の「阿弥陀三尊像」、元禄時代の「梵鐘」など、著名な文化財があります。

 

 

 また境内には、1851年に対岸の俵瀬村(熊谷市俵瀬)で生まれ、明治18年に政府公許の女医第1号となった荻野吟子(おぎのぎんこ)の生家の長屋門が移築されています。赤岩渡船は当時も盛んに運行されており、熊谷市側にも光恩寺の檀家がいたそうなので、そのような経緯で移築されたようです。なお、熊谷市側の渡船場近くの生家跡は、荻野吟子誕生之地史跡公園となっており、長屋門を模した記念館があるそうです。

 

 

 平安時代末期のこの辺り(館林市、邑楽郡)には佐貫荘が成立し、佐貫氏がこの地に赤岩城を築いて治めていましたが、佐貫荘の支配者はその後、舞木氏、赤井氏と変わっていったようです。境内奥には「堂山古墳」という高さ8m、全長80mの前方後円墳があり、前方部の頂上には、館林城(館林市)を築いたとされる赤井照光の墓碑があります。

 

 

 

 赤岩地区の隣の舞木地区には、近江三上山の百足退治や平将門の追討で有名な下野の武将で、俵東太(たわらのとうた)とも言われるな藤原秀郷(ひでさと)が937年頃に築いたとされる舞木城址があります。秀郷流藤原氏と称される秀郷の子孫は多く、佐貫氏もその一つと言われています。また、前述の赤井照光は、大袋城(館林市)から舞木城への年始の途上に子狐を助け、その狐の導きによって館林城(尾曳城)を築いたという伝説もあるそうです。

 

 

 舞木地区にはこのほか、770〜781年頃、中島三郎太郎家綱という郷士とその美しい娘(富子)が住んでいたとされる中島将監屋敷跡があります。こちらに伝わる話によると、当時、上野国の国司であった藤原小黒麻呂がこの屋敷に滞在し、富子との間に知勇兼備の男子が誕生し、やがてその子孫が広く佐貫荘を治めたとのことです。

 

 (参考図書等:千代田町HP、「群馬県の歴史散歩」(山川出版社)、観光パンフレット、現地の説明板等)