本部長の群馬紀行
第21回 日光例弊使道

 皆様、こんにちは。
 
県内は8月中旬以降、天候不順の日が続き、日照不足などが懸念されています。

 現在、自衛官候補生、一般曹候補生、航空学生の各試験の受付けを行っていますが、9月になり防衛大学校や防衛医科大学校(医学科・看護学科)学生の試験の受付けも始まりますので、公務員や自衛官という職業に関心のある方に加え、医師・看護師を目指す方の多数の応募をお待ちしています。

 

 さて、群馬紀行第21回は、県内の日光例弊使道に関連した史跡をご紹介します。

 

 日光例弊使道は、日光東照宮の春の大祭(徳川家康の命日)に弊はく(贈り物)を奉納するために朝廷が派遣した日光例弊使が通るために整備された道で、中山道の倉賀野(くらがの、高崎市)から日光壬生道の楡木(にれぎ、栃木県鹿沼市)に至る区間を指します。日光例弊使は、3代将軍家光の時代1647年から15代将軍慶喜が大政奉還した1867年までの221年間、一度の中断もなく続けられたそうです。1764年には、道中奉行の直接支配下に置かれ、五街道に次ぐ街道として重視されました。写真は、高崎市倉賀野町の「例弊使街道の常夜灯及び道しるべ」です。道しるべには「左日光道、右江戸道」とあり、ここから日光例弊使道が始まります。

 

 

 例弊使の一行は50〜60人で構成され、毎年4月1日に京都を出発し、中山道を辿って碓氷峠を越えて4月10日に坂本宿に宿泊し、翌日、松井田、安中、板鼻、高崎、倉賀野の各宿場を経て、同日夕方、日光例弊使道1番目の玉村宿に到着しました。写真は、玉村宿の鎮守社として庶民から広く信仰された「玉村八幡宮」(玉村町下新田)で、本殿は室町時代後期の建築様式を残しており、国の重要文化財に指定されています。

 

 

 江戸時代初期の玉村宿は荒地でしたが、関東郡代の伊奈備前守忠次が滝川用水を引いて新田開発を行い、更に日光例弊道の宿場に指定されると、東西に日光例弊使道、南北に佐渡奉行街道(中山道の本庄宿から分岐して玉村宿、渋川宿を経て三国街道に至る近道)が通る交通の要衝として発展し、50軒もの旅籠屋が建ち並ぶ日光例弊使道随一の宿場になり賑わったそうです。写真は、当時の面影を残す日光例弊使道と玉村宿です。

 

 

 しかし玉村宿は、1868年1月11日の大火によりほとんどが焼き払われ、例弊使一行が宿泊した「木島本陣」も焼失してしまいます。本陣は高級武士や公卿の宿泊休憩施設として設置され、構造は近世の武家屋敷を基本として店舗的要素を加えた独特の建物で、家主は名字帯刀、門や玄関などを設けることが許されました。写真は、路地奥の木島本陣跡に唯一残る史跡で、1843年の例弊使を務めた綾小路有長が書き残した和歌が刻まれた歌碑です。

 

 

 2番目の宿場は五料(ごりょう)宿で、当時は利根川を挟んで対岸の柴宿とは渡船で結ばれており、玉村宿と併せて水陸交通の要衝として栄えました。その渡し場には例弊使街道唯一の関所(五料関所)が置かれ、例弊使の通行と船運の取り締まりの任務が特別に課されました。関所跡(玉村町五料)には、2つの門柱の礎石と古井戸が残るだけですが、玉村宿側(写真手前)から関所に入り前方の川岸方向に出て渡船に乗るような構造になっていたことが分かります。

 

 

 日光例弊使道には13の宿場が置かれ、このうち、上州に5宿(玉村、五科、柴、木崎、太田)、野州(栃木県)に8宿ありました。県内の日光例弊使道の前半部分は国道354号と重なっており、玉村町から利根川に架かる五料橋を渡って伊勢崎市に入るとすぐに3番目の柴宿となります。写真は、関根家が経営していた「柴宿本陣跡」(伊勢崎市柴町)で、当時道の中央に流れていた水路は現在は石積みの水路として整備され、本陣の門や松と共に当時の面影を感じさせます。

 

 

 3番目の柴宿と4番目の木崎宿の間には、境宿という間(あい)の宿がありました。間の宿は、宿場と宿場の間で地理的条件等から自然発生して発展した休憩用の施設ですが、宿場としては非公認のため旅籠屋が存在せず、宿泊も原則禁じられていたようです。境宿は、柴宿〜木崎宿間が遠距離のために発展した間の宿ですが、本陣が置かれていました。織間家が経営した「織間本陣跡」(伊勢崎市境)は、現在はスーパーの大きな駐車場になっていますが、その脇に立派な石碑が建っています。

 

 

 日光例弊使道は、境宿の先で国道354号から県道312号(太田境東線)に移り、4番目の木崎宿に至ります。木崎宿は特に遊興の宿場として栄え、旅籠には遠く越後などから来た飯盛女と呼ばれた多くの女性がいました。彼女たちは前借制年季奉公で遠出が制限されていたため、宿はずれの地蔵を参詣することで心の安らぎを得たそうです。写真は長命寺(太田市新田木崎町)の「木崎宿色地蔵」で、元は子育て地蔵でしたが、色街(いろまち)の女性が多く訪れたことからいつの間にか「色地蔵」と呼ばれるようになりました。なお、色地蔵も登場する木崎節は、この女性たちが故郷を偲び宴席で唄ったのが始まりとされ、上毛かるた「そろいの支度で八木節音頭」で有名な八木節(発祥は二つ先の八木宿)の元唄になったそうです。

 

 4月11日の早朝に玉村宿を出発した例弊使一行は、5番目の太田宿を経て同日中に野州の天明宿(栃木県佐野市)に宿泊し、4月15日に日光に到着、翌16日に東照宮に弊はくを奉納し、帰路は江戸経由で東海道を通って京都に戻ったそうです。全行程29泊30日の旅で、1日平均約40km歩いたことになります。写真は、太田駅前付近の日光例弊使道です。現在はスバルの工場が建ち並ぶ繁華街ですが、当時の太田宿は、賑やかな木崎宿と八木宿(栃木県足利市)に挟まれた寂しい宿場だったそうです。

 (参考図書等:玉村町歴史資料館、「日光例弊使のみち」(あさを社)、「群馬県の歴史散歩」(山川出版社)、観光パンフレット、現地の説明板等)