本部長の群馬紀行
第19回 岩櫃山と岩櫃城跡

 皆様、こんにちは。
 立秋が過ぎ、暦の上では秋を迎えましたが、暑さはこれからが本番ですね。

 一般幹部候補生試験、技術海上幹部試験に合格された皆様、おめでとうございます。また、現在、自衛官候補生、一般曹候補生、航空学生の各試験の受付けを行っていますので、公務員や自衛官という職業に関心のある方の多数の応募をお待ちしています。

 

 さて、群馬紀行第19回は、東吾妻町の岩櫃山(いわびつやま)とその中腹にある岩櫃城跡などをご紹介します。

 

 岩櫃山は、以前ご紹介した「嵩山」や「吾妻峡」とともに吾妻八景を代表する景勝地で、多くの奇岩や200mの絶壁などその特異な山容には圧倒的な迫力があります。登山口は3か所、登山道は4本ありますが、北東側から登る「沢通り」コースを選びました。登山口の駐車場まで前橋市内から約45km、約1時間30分です。写真は、南側の登山口付近からのものですが、こちらの登山口からは南側の絶壁が見えないため、緊張感なく入山できます。

 

 

 樹林帯の沢道をひたすら登るとやがて岩場となり、鎖や梯子を頼りに登ること約40分で標高800mの東峰です。頂上とほぼ同じ高さで360度の視界が広がり、鞍部を挟んで頂上のある岩峰が見渡せます。鞍部に一旦下って鎖と梯子を使って急傾斜の岩場を慎重に登ると標高802.6mの狭い頂上です。鎖で囲まれた一段高い岩上に登ると、周囲は断崖絶壁で真下に民家などが見え、高度感とともに恐怖感を覚えますが、上毛三山をはじめ浅間山、日光白根山、谷川連峰などの大パノラマに時間が過ぎるのを忘れてしまいそうです。

 

 

 

 大パノラマを満喫した後、北西側に下る「密岩通り」コース上の弥生時代中期の「鷹の巣遺跡」を見学し、その先の「天狗の架け橋」と呼ばれる周囲が切れ込んだ岩の細い橋(写真)を這うようにして渡ってみました。度胸試しの寄り道を終え、再び頂上直下の鞍部に戻って「沢通り」を下り、途中から「尾根通り」を下って標高600m付近にある岩櫃城跡に向かいます。

 

 

 

 岩櫃城は、岩櫃山の中腹東面に築かれた上州一の規模を誇る中世の山城で、吾妻太郎を称する斉藤氏が支配していましたが、1563年に武田信玄の家臣・真田幸隆の計略により落城し、群馬紀行第4回でご紹介したとおり、斉藤氏は中之条町の嵩山城に籠って最後の抵抗をすることになります。一方、岩櫃城は真田幸隆、昌幸、信之の三代が支配し、甲斐の岩殿城、駿河の久能城と並び武田の三名城と称されますが、1615年に徳川幕府の一国一城令により廃城となりました。

 

 

 

 この間、1582年に武田勝頼が織田・徳川の連合軍に攻められて甲府から逃れる際、昌幸は岩櫃城に勝頼を迎い入れて再挙を図ることを進言し、岩櫃山の南麓に三日間で御殿を造りますが、この地に来ることは叶わず勝頼は自刃して果てます。急造された御殿は、昌幸の一族である根津潜竜斎が拝領して寺とし、潜竜院(せんりゅういん)と称して明治17年までこの地にあったそうです。写真は潜竜院跡です。

 

 

 

 

 帰り道、一本松登山口の近くある瀧峨山(りゅうがさん)に寄ってみました。瀧峨山は西山と東山からなり、登山道のある東山は標高530m、20分程度で登れますが、山中に無数の洞窟や石門がある蟻塚のような山で、1747年に百基の観音石像が祀られてから観音山とも呼ばれるようになったそうです。

 

 

 

 また、麓の不動尊の先には不動滝があり、落差は20mほどですが水量が多く、間近に眺めることができるので迫力があり、真夏でも心地良い冷気を感じます。下からは良く分かりませんが、水が三段に流れ落ちているため三重の滝とも呼ばれるそうです。今回は岩櫃山が主目的でしたが、瀧峨山は見所が多く、この山だけを目的に訪れても十分に楽しめると思います。

 

(参考図書等:「新・分県登山ガイド・群馬県の山」(山と渓谷社)、「ぐんまの里山てくてく歩き」(上毛新聞社)、「新ハイキング・臨時増刊号」(新ハイキング社)、「群馬県の歴史散歩」(山川出版社)、観光パンフレット、現地の説明板等)