本部長の群馬紀行
第18回 小栗の里(小栗上野介関連史跡)

 皆様、こんにちは。
 8月に入り暑い日が続きますが、外で活動する際は、こまめな水分補給で熱中症にならないように気をつけて下さい。
 一般幹部候補生試験に合格された皆様、おめでとうございます。また、現在、自衛官候補生、一般曹候補生、航空学生の各試験の受付けを行っていますので、公務員や自衛官という職業に関心のある方の多数の応募をお待ちしています。

 

 さて、群馬紀行第18回は、徳川幕府末期の幕臣で「明治の父」又は「日本近代化の父」とも評され、上野国群馬郡権田(ごんだ)村で非業の死を遂げた小栗上野介忠順(おぐりこうずけのすけただまさ)に関連する史跡をご紹介します。

 

 小栗家は、上野や下野などに9ヶ村2700石の領地を持つ徳川譜代の旗本で、忠順は1827年に江戸で生まれました。大老・井伊直弼に抜擢され、1860年には日米修好通商条約批准の遣米使節として渡米し、帰国後は外国、勘定、江戸町、歩兵、陸軍、軍艦、海軍の各奉行を歴任、フランスと結び財政や洋式軍隊の創設など幕府の改革に尽くし、横須賀製鉄所を建設しました。写真は、高崎市倉渕町権田(前橋市内から約35km、1時間)にある「東善寺」(とうぜんじ)境内の忠順の胸像です。昭和28年に横須賀市から贈られたもので、昭和56年に倉渕村(当時)と横須賀市は友好都市の提携を結びました。

 

 戊辰戦争が始まると忠順は主戦論を唱えますが入れられず、1868年1月に幕府の役職を解かれたため、同年3月1日に領地の一つである権田村に隠棲しました。東善寺を仮住居として、観音山に宅地の造成、用水路、田畑の開発を行いますが、邸の完成には至りませんでした。写真は観音山の邸跡ですが、用水路は今も利用されているほか、邸は前橋市内の民家となって現存しているそうです。

 

 

 忠順が権田村に隠棲すると、多額の軍用金を持ち帰ったというデマに踊らされた二千人以上の暴徒が村を襲いますが、これを見事に撃退します。また、水に困っていた小高集落の村人に頼まれ、関沢川を検分して器械測量で水路を決め、村人に掘削させました。写真は、忠順が引き、現在も流れて水田を潤している「小高用水」です。

 

 

 

 さらに、馬術の得意な忠順は、遠乗りをして村境(権田村と吾妻郡萩生村の境)の塚に植えられた松(「忠治とまどいの松」)まで時折見回りをしたそうです。群馬紀行第5回でもご紹介しましたが、国定忠治は、忠順が隠棲する32年前の1836年にこの街道(旧信州草津道)の先にある大戸関所を避けて山越えをした罪で後年死罪になりますが、関所破りの際、この松の根元で迷ったと伝えられています。

 

 

 しかしながら、忠順のこれらの行動は「小栗は強力な兵力を持ち叛逆の企図あり」との虚言を生み、東山道(中山道)軍が取り上げるところとなり、高崎藩、安中藩、吉井藩に小栗追討令が下ります。忠順は養子の又一(忠道)と家来3人を高崎藩に遣わして他意のないことを開陳しますが入れられずに囚われ、5月27日に家来3人と共に烏川の河原で斬首され、翌日、又一も家来3人と共に高崎城内で斬首されました。写真は、忠順の終焉の地(倉渕町水沼)に建つ顕彰慰霊碑です。

 

 

 村人は、忠順の身重の夫人と母堂を護衛して会津へ逃れ、そこで生まれた女児とともに戊辰戦争後に静岡まで送り届け、その遺族を護ったそうです。また、高崎城内で斬首された家来の一人・塚本真彦の家族は、七日市藩(現富岡市)の縁者を頼って脱出しますが、山中で迷い相間川の淵で幼い姉妹が命を落としました。写真は、相間川のほとり(倉渕町岩氷)に建てられた「姉妹観音」です。

 

 

 忠順の遺体(胴体)は村人により東善寺の裏山(写真の場所)に埋葬され、その首級は又一の首級と共に東山道軍が駐屯していた館林に送られ、首実検された後に現地に葬られますが、後に村人が首級を奪取し、一周忌当夜、この場所に埋葬されたそうです。このほか、東善寺には忠順の家来やその家族の墓があります。

 

 

 

 このように忠順は村人に敬愛され、現在も「小栗まつり」などの顕彰活動が続けられており、本年4月に高崎市倉渕支所前にオープンした道の駅は、忠順に因んで「くらぶち小栗の里」と名付けられました。(参考図書等:小栗上野介顕彰会HP、東善寺HP、道の駅「くらぶち小栗の里」、観光パンフレット、現地の説明板等)