本部長の群馬紀行
第16回 新田荘遺跡(その1)

 皆様、こんにちは。
 梅雨が明け、連日猛暑が続きますが、こまめな水分補給で熱中症にならないように気をつけて下さい。

 いよいよ8月1日から、来春採用の自衛官候補生、一般曹候補生、航空学生の試験の受付けが始まりますので、自衛官や公務員という職業に関心のある方など、多数の応募をお待ちしています。

 

 

 さて、群馬紀行第16回は、新田荘(にったのしょう)遺跡をご紹介します。

 

 

 新田荘関連の遺跡は多く、平成12年にそれらの中心的な11の遺跡が「新田荘遺跡」として国の史跡に指定されました。今後、関連の遺跡とともに何回かに分けてご紹介したいと思います。写真は、太田市の歴史資料が一堂に保管・展示されている「新田荘歴史資料館」(太田市世良田町、前橋市内から約25km、約50分)です。

 


 新田荘は、1108年の浅間山の大噴火で荒廃していた旧新田郡(現在の太田市を中心とした範囲)を、下野国足利荘に本拠をおく源義国(前回の群馬紀行に登場した源義家の三男)とその長男の義重が再開発して成立した荘園で、ここを本拠に新田源氏の一族が活躍することとなります。写真は、新田荘の水源の一つである「矢太神(やだいじん)水源」(新田荘遺跡、太田市新田大根町)です。ここは水量が豊富なため、新田荘で初めに開発された地域で、湧水が砂を吹き上げる「自噴現象」をはっきり観察することができます。


 義重から始まった新田一族は、新田荘の各地に館を構え、それぞれの郷村名を名乗りますが、更に義重は、長男の義俊を里見(高崎市下里見町、安房里見氏の祖)に、三男の義範を山名(高崎市山名町、群馬紀行第9回で紹介)にも配して勢力を広げました。写真は「総持寺(そうじじ)」(新田荘遺跡「総持寺境内」、太田市世良田町)です。総持寺は別名「館の坊」と呼ばれ、新田氏の惣領(そうりょう、本家)の館があった所とされています。


 義重の四男の義季(よしすえ)は、徳川(太田市徳川町)に館を構え、徳川氏を称しましたが、後に、三河の松平元康がその子孫であるとして徳川氏を称して徳川家康となり、始祖として崇めました。写真は、義季が臨済宗の高僧を招いて開き、多くの名僧を輩出した「長楽寺」(新田荘遺跡「長楽寺境内」、太田市世良田町)です。戦国時代には衰退しますが、家康が天海僧正を住職として復興にあたらせ、天台宗に改宗するとともに境内を整備し、末寺700有余の大寺院に成長させました。


 家康が徳川氏を称した経緯は、義季から8代目の子孫が各地を流浪した末、三河国松平郷の豪族の女婿になり、9代目が家康(松平元康)だったというものですが、幕府の長たる征夷大将軍は源氏という慣例があるため、新田源氏である義季の系図を粉飾したとも言われています。写真は、3代将軍家光が日光東照宮の大改築を行った際、長楽寺境内に勧請(分霊を他の神社に移すこと。)した「東照宮」(新田荘遺跡(東照宮境内)、太田市世良田町)です。世良田一帯は、徳川発祥の地として幕府の手厚い庇護を受けるとともに、東照宮の鎮座は文化・経済の発展を助長し、世に「お江戸みたけりゃ世良田にござれ・・・」と謡われたそうです。


 一方、新田本家は、義重の二男の義兼が継ぎ、3代義房、4代政義と続きますが、1180年の源頼朝による挙兵に際し、義重が一時期静観を保って参陣が遅れたこと、1244年に政義が無断で出家した罪で失脚したことなどの経緯により、鎌倉幕府における地位は低下していきます。写真は、政義が蟄居していた時期に開いたとされる「円福寺」(新田荘遺跡「円福寺境内・十二所神社境内」、太田市別所町)です。境内には、県内第3位の規模を誇る前方後円墳「茶臼山古墳」があり、後円部には「十二所神社」、前方部東裾には「伝新田氏累代の墓」があります。



 
ところで、私も参加していますが、太田市教育委員会では、この夏休み期間中、新田荘遺跡を含む26か所の史跡を巡る「おおたんの史跡探検スタンプラリー」を行っています。参加制限はなく、入場料無料の特典があるほか、修了認定の記念品を貰えるそうです。

 

 なお、今後の「新田荘遺跡(その2)」では、8代義貞に関連した史跡を中心にご紹介します。(参考図書等:「群馬県の歴史散歩」(山川出版社)、新田荘歴史資料館、観光パンフレット、現地の説明板等)