本部長の群馬紀行
第14回 箕輪城跡

 皆様、こんにちは。
 梅雨明けした沖縄付近の海水温の上昇などで台風が発達し、梅雨前線が活発化するなど、引き続き注意が必要です。


県内各地で地本の自衛官等募集事務担当者(広報官)による募集活動が行われていると思いますが、受験資格があり、自衛官という職業に関心のある方は、是非一度耳を傾け、ご検討頂けますようお願い申し上げます。

 

 さて、群馬紀行第14回は、前橋市内から約15km、約30分の高崎市箕郷町にある箕輪(みのわ)城跡とその関連史跡をご紹介します。

 

 箕輪城は、1500年頃、高崎市の浜川地域を拠点にしていた長野氏が、榛名山の東南麓に広がる標高280mほどの独立丘陵上に、榛名白川や湿地帯などの自然の地形を巧みに利用して築城しました。城跡には当時の建物は残っていませんが、大規模な堀や石垣などは良好に残り、国の史跡に指定さているほか、日本城郭協会が選定した「日本百名城」にも選ばれています。掲載写真は、城跡の東南端にある「椿山の砦跡」から見た本丸方向(左側の山)と遠景は榛名山です。

 

 

 城跡は約36haと広大で、駐車場は3か所あり、もう1か所が整備中です。城跡内の散策路も豊富で、城跡への入り口は全方位にわたり7か所あり、本丸跡付近を周回する「中央コース」が約800m、各入口から中央コースまでは約200〜600mもあるため、アップダウンのある城跡を隈なく散策するには2時間程度はかかります。


 

 箕輪城は、戦国時代の渦中で、武田氏、織田氏、北条氏、徳川氏と次々と主が変わりますが、それを契機に幾度も改修され、現在残っている堀や石垣などの主なものは、最後の城主である井伊直政の時代に改修されたものと考えられています。井伊直政は、徳川四天王の一人であり、1590年に徳川家臣として最大の12万石を拝領して城主になりましたが、1598年に城を高崎に移したため、箕輪城は廃城となりました。

 

 

 城跡の最大の特徴は、大規模な堀で、本丸周辺は最大幅30m、深さ10mの空堀が巡り、城の中央部を南北に分断する大堀切など、全国的な規模の堀が各所に残っています。また、城主の権威を示すとされる石垣も多数残っており、特に三の丸の石垣は4mも確認され、北関東の要の城にふさわしい形で改修されたことがうかがえます。



 箕輪城跡を後にして、箕輪城築城以前に長野氏が築いて居城としていた鷹留(たかとめ)城跡に行ってみました。通称「榛名フルーツライン」と呼ばれる道を約10km、20分ほど進んだ高崎市下室田町にあります。鷹留城は、県内有数の規模(南北400m、東西300m)の山城で、箕輪城築城後は、その有力支城としての機能を果たしていたそうです。掲載写真の中央右の山全体が城跡です。

 

 

 関東管領山内上杉氏に仕えていた長野氏は、鷹留城や箕輪城を築いたとされる業尚(なりひさ)、憲業(のりなり)、業政(なりまさ)と続き、業政の代に全盛期を迎え、難攻不落の箕輪城やこの鷹留城に拠って、武田信玄の西上野侵攻に対して激しく抵抗しますが、その死後、業盛(なりもり)の代の1566年についに落城し、業盛は自害して果てます。鷹留城跡は、箕輪城跡と異なり、訪れる人もなくひっそりとしていますが、山城としての遺構は良く残っていました。

 

 

 このほか、鷹留城跡の麓の烏川沿いに、業尚が創建したとされる長年寺(ちょうねんじ)があります。境内には業尚をはじめ業政、業盛など長野氏累代7人を供養する7基の五輪塔があり、長野氏の菩提寺として知られています。

 


 (参考図書等:「群馬県の歴史散歩」(山川出版社)、観光パンフレット、現地の説明板等)