本部長の群馬紀行
第12回 上野国分寺跡とその周辺の史跡

 皆様、こんにちは。
 連日、大気が不安定な状態が続き、突然の大雨や雹が降りますので注意が必要です。

 今週、一般陸曹候補生課程・自衛官候補生課程の卒業式に臨席しました。この春に陸上自衛隊に入隊し、約3か月間の教育課程ですが、皆、見違えるように逞しく立派になった姿を見て、入隊に関わった者として、大変嬉しく感じました。

 さて、群馬紀行第12回は、国指定史跡の上野国分寺跡とその周辺の史跡をご紹介します。


 上野国分寺跡は、前橋市内から約5km、車で10分ほどで、前橋市元総社町と高崎市東国分町・引間町にまたがっており、南北に縦断する関越自動車道のすぐ西側です。ここは、かつての上野国のほぼ中央に位置し、榛名山、赤城山、浅間山や国境の山々が見渡せる絶好の場所だったようです。国分寺跡の周囲には駐車場や進入路(天平の道)が整備され、ガイダンス施設「上野国分寺館」も併設されています。掲載写真は、上野国分寺館(左)と寺跡(右)です。

 



 
上野国分寺館は入館無料で、全体想像図、七重塔の二十分の一の模型、各種出土品などが展示され、解説ビデオで学習することができます。それによると、天平13年(741年)、聖武天皇は、仏教の力によって災害や疫病や外敵を防ぎ五穀豊穣を祈念するため、全国68の国々に僧寺と尼寺を建立することを命じ、やがて七重塔を有し大規模な伽藍を持つ僧寺は「国分寺」、尼寺は「国分尼寺」と呼ばれるようになりました。上野国分寺は、周辺の諸豪族の協力により、全国で最も早い749年頃には建立されたようです。

 


 国分寺跡は、その規模が2町(約216m)四方に及び、七重塔と金堂の基壇(きだん)が復元され、寺の周囲を囲む築垣(ついがき)と呼ばれる土塀の一部が当時の工法によって復元されています。七重塔は全国の国分寺の中でも最大規模で高さが約60mもあり、高層物のない当時は遠くからでも良く見えたことでしょう。掲載写真は七重塔の基壇ですが、背景左側に小さく群馬県庁が映っています。基壇横の樹木は約20mとのことなので、その3倍ほどの高さの七重塔を想像すれば、群馬県・上野国の新旧ランドマークタワーが並立します。

 


一方、国分尼寺跡は、国分寺跡の東約500mほど、丁度、関越自動車道を挟んで反対側にあります。ただし、国分寺跡のように史跡整備はされていないので、上野国分寺館で概略の位置を教えてもらい周辺を注意深く探しました。目立たない場所ですが、畑の片隅に思ったよりも立派な標柱が建てられ、隣の石の上には出土品の一部と思われる物が置かれていました。

 



 この他、国分尼寺跡の北約数百mにある日枝(ひえ)神社境内には、国指定史跡の山王廃寺跡(さんのうはいじあと)があります。山王廃寺は、群馬紀行第9回「上野三碑」でも少し触れましたが、681年に建立された「山上碑」に記された「放光寺」と同一とされることから、それ以前に建立された古代寺院で、五重塔を有する全国的にも希にみる豪壮・華麗な寺院だったようです。また、国分尼寺跡の南約数百mにある宮鍋様(宮鍋神社)は、上野国府があったと推定される場所で、かつてこの辺りが律令体制下における上野国の政治や文化の中心地だったことが分かります。

 



 なお、山王廃寺跡には、五重塔の基礎部分の塔心礎(とうしんそ)、塔心の根元を装飾した国指定重要文化財の根巻石(ねまきいし)、中国伝来の架空の動物をかたどり屋根を装飾した国認定重要美術品の石製鴟尾(せきせいしび)など、精巧に加工された石造物が残っていることでも知られており、掲載写真は、そのうちの石製鴟尾(手前)と根巻石です。

 

 (参考図書等:上野国分寺館、「東国文化ガイドブック」(群馬県歴史文化遺産発掘・活用・発信実行委員会))、「群馬県の歴史散歩」(山川出版社)、現地の説明板、観光パンフレット等)