本部長の群馬紀行
第9回 上野三碑(多胡碑、金井沢碑、山上碑)

 皆様、こんにちは。
 関東地方も梅雨入りしましたね。
幹部候補生の第2次試験に臨まれる受験生の皆様には、試験当日のご健闘をお祈りしています。

 
 さて、群馬紀行第9回は、平安時代以前に造立され「上野三碑(こうずけさんぴ)」と総称される「多胡碑」「金井沢碑」「山上碑(やまのうえひ)」をご紹介します。市内から約20km、車で40分ほどの高崎市南部地域の半径3km以内の非常に近接した場所(3碑の中心部には陸上自衛隊吉井分屯地があります。)にあります。


 文字を駆使し石碑を建てる文化は、飛鳥時代に朝鮮半島や中国からもたらされたものですが、日本国内で現存する平安時代以前の古碑は18碑に過ぎず、そのうちの3碑の集中は歴史的にも特筆され、いずれも国の特別史跡に指定されています。なお、3碑とも鍵のかかった覆屋の中に大切に保存されているため、ガラス越しに見ることとなります。(写真は山上碑と山上古墳)



 
「多胡碑」は高崎市吉井町池の「吉井いしぶみの里公園」内にあり、朝廷からの命令で711年に上野国に新たに多胡郡(現在の吉井町付近)を建てたことを記念して造立された石碑です。上毛かるたにも「昔を語る多胡の古碑」として登場し、また、栃木県の「那須国造碑」と宮城県の「多賀城碑」とともに日本三古碑の一つにも数えられています。なお、地元では碑文中の「給羊」の文字に因んで多胡碑を「ひつじさま」と呼び、羊太夫伝説とともに親しまれているそうです。公園内には多胡碑記念館があり、上野三碑のレプリカや多胡碑に関する多数の資料が展示されていました。



  「金井沢碑」は高崎市山名町金井沢にあり、佐野三家(さののみやけ)という大和政権が各地の軍事・経済的要地に置いた直轄地の一つを管理していた豪族が、祖先の供養と一族繁栄を祈念するために726年に造立した石碑で、碑文冒頭の「上野国群馬郡・・・」の「群馬(くるま)」の文字は、在地における最古の「群馬」の使用例であり、県名のルーツになっているそうです。

 


 「山上碑」は高崎市山名町山上谷にあり、直径15mの円墳である山上古墳に隣接しています。佐野三家を管理していた豪族の血筋で放光寺(前橋市総社町の山王廃寺)の僧・長利(ちょうり)が、自己の顕彰と山上古墳に埋葬された母を追善するために681年に造立したもので、完存するものに限れば日本最古の石碑です。

 



 この金井沢碑と山上碑は、観音山丘陵の山名八幡宮と少林寺達磨寺を結ぶ高崎自然歩道の経路上にあるため徒歩での移動も可能ですが、当日は車で移動しました。高崎自然歩道には、石碑のほか、万葉集の上野国の歌の碑が立ち並ぶ「石碑の道(いしぶみのみち)」や山名城址、根小屋城址など見どころがたくさんあります。道は良く整備されていて歩きやすく、静寂な森林の中を気持ち良く散策できます。山上碑の駐車場に車を停め、高崎自然道に入って山上碑と山上古墳、山名城址、根小屋城址と順に巡って往復1時間40分ほどでした。



 山名城は、新田源氏の祖である新田義重の子・義範がこの城に拠って山名氏を称し後に足利将軍家の重鎮となった山名氏発祥の城であり、また、根小屋城は、西上州を手中に収めた武田信玄が1568年頃に築いて山名城とともに利用したとされる山城で、いずれも堀や郭などの遺構が良く残っていました。(参考図書等:多胡碑記念館、現地の説明板、観光パンフレット等)