本部長の群馬紀行
第5回 滝沢の不動大滝と忠治の岩屋

 皆様、こんにちは。
5月に入りましたが、これからの季節は、県花の「レンゲツツジ」が見頃を迎えるのでしょうか。

 

 

 さて、群馬紀行第5回は、赤城山南麓の粕川上流に位置する「滝沢の不動大滝」と江戸時代後期の侠客・国定忠治が身を隠したと言われる「忠治の岩屋」をご紹介します。

 


 入り口となる駐車場(前不動駐車場)は、赤城温泉郷・滝沢温泉から分岐した林道沿いにあり、前橋市内から約25km、車で50分程度です。駐車場には不動滝や岩屋などの位置を示す案内板があるので、それに従って山道に入ります。途中の「忠治のみはり岩」や「瀧み所」(掲載写真上の忠治の顔の左に滝が小さく遠望できます。)を経て、中間地点には、崖の洞穴の下に本殿が建つ「滝沢不動尊」があります。

 



 
不動尊の参門をくぐって崖下に降り、粕川に沿って険しい岩場を更に奥に進みますが、突如視界が開けると大きな滝が眼前に現れます。ここまで、駐車場から約50分ほどかかりました。「滝沢の不動滝」は、落差32m、赤城山では最大の滝で水量も多く、絶壁から滝壺めがけて勢いよく流れ落ちる様は迫力満点です。



  「忠治の岩屋」は、滝を背にして5分程度戻った左側の険しい断崖上にあります。この辺りは山深く険しい岩場で、見張りに適した場所も多いので、追手から身を隠すのにはうってつけの場所だったのでしょう。岩屋はかなり深い洞窟ですが、現在は落石の危険があるため、残念ながら中に入ることができませんでした。

 

 

 


 浪曲や演劇などで有名な国定忠治は、本名を長岡忠治といい、上野国佐位郡国定村(現在の伊勢崎市国定町)の生まれで、早くから無宿渡世の道に走り関八州の大親分として名をはせましたが、博打で儲けた私財を庶民救済に充てるなどその義侠心で人々に慕われていたそうです。その忠治も、今から175年前の1840年、乾分の仇打ちなど相次ぐ殺傷事件を起こして全国指名手配となり、厳しい役人の追手を逃れて同年11月から翌年2月までの約3ヵ月間、この岩屋に身を隠したと言い伝えられているとのことです。例の名台詞「・・・赤城の山も今宵限り、生まれ故郷の国定の村や縄張りを捨て国を捨て、可愛い乾分の手前達とも別れ別れになる門出だ・・・」は、この岩屋を去って遠く信州路へ旅立つ時のものです。その後1850年についに捕縛され、数々の罪状の中で一番重い関所(大戸関所跡:東吾妻町)破りの罪で磔の刑に処せられました。

 



 別の日ですが、忠治の故郷に墓碑があるそうなので、久しぶりに電車で行ってきました。場所はJR両毛線国定駅の北東約1km、歩いて15分ほどの距離にあり、北に大きく赤城山が見渡せる場所に建つ「養寿寺」の中です。義理人情に厚く、また、遊興産業が盛んな群馬県において、博才に長けた忠治にあやかろうと、訪れる人が墓碑を少しずつ削り持ち帰ったため、忠治の墓碑は昔より小さく丸くなったそうですが、現在は、削り取られないように鉄の柵で囲ってありました。(参考図書等:「群馬県の歴史散歩」(山川出版社)、現地の説明板、赤城山の観光パンフレット等)