観光特使の新・群馬紀行
第19回 鎌倉街道・上道 

 皆様、こんにちは。

新・群馬紀行第19回は、群馬県内に残る「鎌倉街道・上道」の痕跡をご紹介します。


「鎌倉街道」は、鎌倉から関東各地に延びる道路の総称で、1192年に源頼朝が相模国・鎌倉に幕府を開いて以降、幕府と御家人の本拠地を結ぶ道として整備されました。当初は「鎌倉往還」などと呼ばれていましたが、江戸時代になって中山道などの諸街道と区別するために鎌倉街道と呼ばれるようになりました。江戸時代に整備された諸街道と異なり、道はほぼ消滅しているため、その道筋は古文書や伝承などによる推定の域を出ませんが、一方で、鎌倉街道と称する道路は現在も各地に存在しています。


鎌倉街道は、地方に行くほど枝分かれして多数存在していましたが、上野国に向かう「上道」(かみつみち)、下野国に向かう「中道」(なかつみち)、下総国や常陸国に向かう「下道」(しもつみち)と呼ばれていた道が代表的で、特に上道は歴史上著名な多くの事件の舞台となりました。写真は、上道の起点となる和田城跡(高崎城跡)付近から北方向を見たところですが、上道はここから、北の越後国に向かう道(概ね国道17号・三国街道)や西の信濃国に向かう道(概ね国道18号・中山道)に分かれていました。


和田城は、1213年の和田合戦で討たれた有力御家人・和田義盛の一族がこの地に逃れて建てた城(群馬紀行第46回参照)と伝わりますが、その近傍に1177年に新田氏の祖・新田義重が創建し、後に和田氏が再建して菩提寺とした「興禅寺」があります。寺に伝わる「和田城並びに興禅寺境内古絵図」には、和田城や興禅寺に接して鎌倉街道が描かれており、寺に接した写真の道路は上道であったと推定されます。


写真は、高崎市新後閑町の国道17号、城南大橋、上信電鉄に囲まれた小緑地に建つ「鎌倉街道記念碑」ですが、城南大橋の下を潜る左の小さな陸橋は「鎌倉橋」と名付けられていて、上道がこの地を通過していたことを示しています。明治30年に開通した上野鉄道を前身とする「上信電鉄」(群馬紀行第37回参照)は、高崎市の南を回り、鏑(かぶら)川に沿って西の富岡市、下仁田町に向かいますが、上道はしばらく上信電鉄に沿うように進みます。


写真は、平成26年末に開業した上信電鉄「佐野のわたし駅」(高崎市上佐野町)で、ホームには謡曲「鉢の木」に登場する鎌倉武士・佐野源左衛門常世(つねよ)のイラストパネルが掲示されています。一族の不祥事で領地を奪われ、この地に隠棲しつつも「いざ鎌倉」に備える常世は、大雪の日に泊めた旅僧のために秘蔵の鉢の木(松、桜、梅の盆栽)を焚いてもてなしますが、後日幕府の動員令を受けて上道を駆けつけると、執権・北条時頼(旅僧)から恩賞(上野国松井田荘、越中国桜田荘、加賀国梅田荘)を賜ったという話で、駅近くには、常世の屋敷跡に祀られたと伝わる「常世神社」(同第52回参照)があります。


写真は、烏川を渡る上信電鉄と木造の「佐野橋」で、その後方を上越新幹線が通過していますが、ここには駅名の由来になった「佐野の渡し」(船を繋いで板を渡した浮橋)がありました。万葉集・東歌に「かみつけの佐野の船橋とりはなし 親はさくれどわはさかるがへ」と詠まれており、烏川を挟んだ二つの村の男女が夜間に船橋を渡って逢瀬を重ねているのを知った親が板を外しておいたところ、二人は気付かずに川に落ちて亡くなるという悲劇ですが、上道はこの辺りを渡っていたと推定されています。

 

写真は、烏川と鏑川の合流点にせり出した丘陵の麓にある高崎市山名町の「山名八幡宮」(同第58回参照)で、新田義重の三男で分家して丘陵上に城を築き山名氏を称した義範が勧請したものです。1333年5月8日、新田荘・生品神社(同第17回参照)で挙兵した本家8代の新田義貞は一旦西に向かい、この辺りで山名氏や信濃国・越後国の新田一族と合流した後、上道を南下して鎌倉に向かったと伝わります。なお、山名氏はその後新田氏を離れて足利氏に味方し、後に室町幕府の重鎮となりました。

 

上信電鉄は丘陵の麓を巻くように進みますが、上道は山名八幡宮の辺りから丘陵を越えていました。写真は、かつて賑わいを見せた「山本宿」の三本辻で、旅人の往来安全や宿の安全を見守った「山ノ上地蔵尊」が建っています。上道は、左手(山名八幡宮)から上り、三本辻を左折して右手(鏑川)に下りますが、三本辻を手前側に右折すると、上野三碑の一つ「山上碑」(同第9回参照)や山名城跡があります。



丘陵を越えた上道は、鏑川に沿って西に向かう上信電鉄を離れ、南に向かって鏑川を渡ります。写真の茂みは、鏑川の河岸段丘上に築かれた藤岡市三ツ木の「三ツ木城」跡で、現在は「豊受神社」が祀られています。かつて関東管領・上杉氏の居城として栄えた平井城(藤岡市西平井。同第56回参照)の北縁防御の城として築かれましたが、写真の道は、城に接して南北に通過していた上道だと推定されています。  


藤岡市に入った上道は、白石稲荷山古墳(新・群馬紀行第7回参照)を通過し、東に向きを変えて標高189mの庚申山(こうしんやま)丘稜を越えました。丘稜の東斜面には、竹林に囲まれた「龍田寺」がありますが、その北側に通称「鎌倉坂」と呼ばれる坂道が残っています。写真の車道から右に分かれる道が鎌倉坂で、現在は薄暗い竹林の中を通る農道となっています。


庚申山丘陵を越えた上道は更に東に向かい、藤岡市本郷の「藤岡市立美九里(みくり)東小学校」に至ります。写真の正門に建つ鎌倉街道の説明版には、「ここを通っている道は上野国(群馬県)と鎌倉を結ぶ街道であり、人々は物見山(庚申山)を通り道中郷から神流川を渡って鎌倉と行き来しました。」と書かれており、上道は小学校の校庭付近を東西に横切っていたことが分かります。



写真右の、藤岡市本郷字道中郷(みちなかごう)の畑の中に建つ「葵(あおい)八幡宮」には、木曽義仲の側室・葵御前にまつわる伝承があります。平氏討伐の兵を挙げた義仲が1184年に従兄の源頼朝の命により討たれると、葵御前は義仲の父・源義賢が治めていた多胡荘(高崎市吉井町。群馬紀行第58回参照)を頼り、牛車に乗って上道をこの地まで逃れて来ます。しかし、写真前方の「牛ノネ坂」で牛が石につまづいて足を折ってしまい、御前は追手に斬られて畑の中に捨てられてしまったため、土地の人々は御前を供養するために宮を建てたと伝わります。


写真は、神流川を渡るJR八高線で、上道も葵八幡宮の先で神流川を渡り武蔵国に入りました。高崎市(倉賀野駅)と東京都八王子市(八王子駅)を結ぶ八高線は、埼玉県に入った後、丹荘(たんしょう)駅、児玉駅、松久駅、用土駅、寄居駅と進みますが、上道も概ねこれに沿うように進みます。上道を駆け抜けた義貞は、小手指ヶ原(こてさしがはら。埼玉県所沢市)や分倍河原(ぶばいがわら。東京都府中市)で幕府軍を破り、5月18日には鎌倉を包囲、同22日に執権・北条高時を自刃させました。  

 

 

(参考図書等:「武蔵府中と鎌倉街道」(府中市郷土の森博物館)、「古道紀行・鎌倉街道」(保育社)、観光パンフレット、現地の説明板等)