受験生のために

“-196度でタンパク質は生きられるのか?〜低温状態での水〜”

(応用化学科 反応化学研究室)

 

1.はじめに

皆さんは、「-196度」と言う言葉を聞くと何を思い浮かべるでしょうか?“寒い”とか”冷たい”という言葉でしょうか?私は、-30度の中で長時間外にいると髪の毛が凍ってしまい”ポキン”と折れてしまったという体験をしたことがあります。また、テレビで薔薇などの花を凍らせると粉々になってしまうという映像を見たことがありませんか?

このように一度折れた髪の毛や粉々になってしまった花は、元の温度に戻しても元通りになることはありません。これが「低温」の世界の1つの現象です。

別の「低温」の現象として、大根や人参の種を液体窒素という-196度の”冷たいお風呂に入れるとどうなると思いますか?驚くことに、液体窒素に大根や人参の種を入れてもしっかり生長し、芽を出します。これはとても不思議な現象だと思いませんか?

当然のことながら、人間が-196度の「冷たいお風呂」に入ると一瞬にして凍ってしまいます。これらの現象には、皆さんが日常使っている「水」が大きく関わっているのです。私たちの体には多くの水を保有しています。水は、0度以下で氷になることは皆さんご存じですね。実は、この氷の生成が細胞膜やタンパク質を壊す原因となるのです。しかし、ある植物などは0度以下で氷の生成を防ぐことのできる特殊なタンパク質(不凍タンパク質)をそれ自身が持っているのです。この不凍タンパク質は氷と結合して、氷の生長を止める働きがある非常に不思議なタンパク質です。

これらの話で分かるように、「-196度」という低温条件下で細胞やタンパク質が壊れて機能しなくなる生き物とそのような環境でも機能して生きていくことのできる生き物が自然界には存在するのです。ここで大前提として、生き物は「水」を保有しているということです。

生き物は水がないと生きていくことはできません。多くの生き物は室温(25度付近)で液体状態の水を保有していますが、「低温」でも機能し、生きていくために、水が「氷」に変化してしまう問題を解決しなければいけません。世界的に様々な分野の科学者たちは、「どうすれば氷の生成を防止できるのか?」、「どうすれば低温で生き物は生きていけるのか?」という問題にいろいろな側面からアプローチをしています。

 

0度以下で水が氷になってしまう。」

「ある生き物は特殊なタンパク質を持つ。」

 

この2つのキーワードは昨今注目されている細胞やタンパク質の凍結保存に関係する研究への糸口となります。もし、細胞やタンパク質を傷つけることなく正常なままで長期に亘って凍結保存できたとしたら、医薬の分野で難病の治療などに大いに役立つことでしょう。

 

2.凍った水とガラス状態の水

  皆さんも知っての通り、普段使っている水(液体状態)は水蒸気(気体状態)や氷(固体状態)など様々な状態変化をします。「1.はじめに」で述べたように、細胞やタンパク質には水が必要不可欠です。

しかし細胞やタンパク質が低温で生きていくためには、天敵である凍った水、つまり「氷」の生成をいかに防ぐかが重要なポイントになります。

もし、低温で氷の生成を抑制することができれば、細胞やタンパク質の長期冷凍保存が可能になります。

言い換えると、低温でも生き物が生きていけるとうことに繋がります。

水は-196度の低温で氷でも水蒸気でもない、流動性のある「ガラス状態」という状態を取ることができるのです。このガラス状態の水は、水特有の水素結合が液体状態よりも強いが、氷よりも弱いという特徴を持ちます。しかし、実験的に純水な水のガラス状態を作ることは極めて難しいのが現状です。そこで我々は、ガラス状態を比較的容易に形成できる様々な塩(塩化リチウムなど)水溶液や糖(スクロースなど)水溶液を用いて、純粋な水のガラス状態がどのような化学的、物理的性質を示すのかという研究を行っています。

では、どのような手法で、液体状態、固体状態、ガラス状態の水の性質を調べるのでしょう?我々は1つの手法として、光を使って分子の振動を観測する振動分光法を使っています。

図1に示したのは液体状態、ガラス状態、固体状態における、ある塩水溶液の水のOH伸縮振動(図2)のラマンスペクトル(振動分光法の1つで光を物質に照射することで得られるラマン散乱を観測した波形)です。 

氷の波形は、液体状態やガラス状態と全く異なることが分かります。非常に驚くことは液体状態(25度)とガラス状態(-196度)の水の波形が良く似ている(2つの波形は共に幅広いピークを持つが、氷は鋭いピークを持つ)ことです。つまり、液体状態(25度)とガラス状態(-196度)の水の性質が類似していることを表しています。

このことを応用することで、細胞やタンパク質の天敵である「氷」を生成せずに、低温で細胞やタンパク質の長期冷凍保存が可能になるでしょう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

3.凍ったタンパク質とアモルファス状態のタンパク質

  タンパク質は「生き物」です。温度が下がると人間が”寒い”と感じ体を丸めるように、タンパク質も温度が下がるとその形を変えていきます。

一般に、室温付近の球状タンパク質は天然状態と呼ばれる丸まった構造をし、機能を発現します。

温度を下げていくと、次第に少しずつその丸まった構造が変化し、機能を失ってしまいます。これを低温変性状態といいます。

これは、低温に成ることで生成される氷がタンパク質の構造を壊しているからです。ところが、スクロースなどの糖を入れた水溶液にタンパク質を溶かすと、低温で糖水溶液はガラス状態を形成するため、低温でも丸まった構造(天然状態)に近い状態でタンパク質の構造を維持することができます(図3)。

つまり、低温でもタンパク質が形を変えなくてもいいように、糖水溶液という「コート」を着せてあげるのです。そうすることで、水は氷を生成することなく、室温のような丸まった構造を保ちます。 

   図4にその例として、風邪薬に入っているリゾチーム(図5)というタンパク質の凍結、ガラス、液体状態の赤外スペクトル(ラマンスペクトルと同様に、光を用いて分子の振動を測定する方法。振動分光の1つ)を示します。液体状態の赤外スペクトルは、非対称な比較的鋭い波形をしています。これは、リゾチーム自体にいくつかの構造(らせん構造やシート構造)を持つことを示しています。これが天然構造です。しかし、凍結状態(-196度)になると、液体状態に比べ波形は幅広くなっています。これは、リゾチームが丸まった天然構造を保つことができず、ほどけた構造に変化していることを示しています。ところが、同じ-196度でもガラス状態の波形は、液体状態に近い波形をしていることから、リゾチームが丸まった構造を維持しているということを知ることができます。

 これまでの話は、タンパク質の「形」に注目していますが、もう1つ重要な要素があります。それは、ガラス状態から室温状態に戻した時に、そのタンパク質が機能を持つかどうかということです。タンパク質の凍結保存をするためには、構造だけではなく、機能を調べることも極めて重要です。もし、このような条件でタンパク質の機能も維持できるのであれば、生物の凍結保存への応用に繋がることでしょう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

4.おわりに

  我々は、主に光を使って分子の振動を観測する振動分光法という手法を用いて、水や水溶液の不思議な現象の解明に挑んでいます。ここでは「低温」に焦点を当てましたが、低温だけではなく、高圧や低温と高圧の組み合わせという特殊な方法を駆使して研究をしています。また、我々の研究グループは、水・水溶液の研究だけではなく、金属を触媒にした有機化合物への付加反応といった新しい有機触媒反応などの有機化学に関する研究も行っています。こういった研究は医薬や工業だけではなく、その他の幅広い科学の分野に応用が期待されます。

我々の研究グループでは、学生と共に最新の研究課題や新しい発見ができるように、また幅広い知識を柔軟に発揮できるような学生指導に日々努力をしています。防衛大学校の応用化学科には他にも様々な興味深い研究があります。是非、一度、応用化学科のホームページを御覧になって下さい。皆さんの好奇心を掻き立てられる研究が見つかるかもしれませんよ!

 

(文責 応用化学科 反応化学研究室 助教 竹清 貴浩)