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桜山神社
桜山神社招魂場 元治元年(一八六四)一月、高杉晋作の発議によって創建された招魂場で、慶応元年(一八六五)八月には社殿も造営され、招魂社としてはわが国最初のものといわれている。創建当初は、文久三年(一八六三)五月十日に始まる下関攘夷戦において戦死した奇兵隊士の霊を弔うものであったが、後、小倉戦争(四境戦争)や北越戦争(戊辰の役)で戦死した者、さらには長州の尊王討幕運動に輝かしい名をとどめる吉田松陰、高杉晋作、久坂玄瑞、山縣有朋らの霊も加え、今日では三百九十六柱の志士がここに祀られている。 この招魂場のもつ尊い意味は、偉大な指導者吉田松陰から奇兵隊小者弥吉といった名もない者にいたるまで等しく祀られていることで、整然と立ち並ぶ霊標の姿は、奇兵隊における武士、町人の身分制を超えた新しい時代への理念を伝え、胸を打つものがある。 なお、この地は奇兵隊調練場跡でもあり、招魂場となって以後桜を植えたことから、桜山と呼ばれるようになったもので、下関市内の数多い維新史跡の中でも、ことに重要な意味を持つ聖地ということができる。 (掲示板説明)
猛 烈 奇 兵 何 所 志 要 将 一 死 報 邦 家 尤 欣 名 遂 功 成 後 共 作 弔 魂 場 上 花 弔む羅和留人尓入るべき身なり志尓 弔む羅宇人となるそは津か志 謹 弔 霊魂 故奇兵隊士東行狂生
猛烈の奇兵何の志す所ぞ 一死を将って邦家に報いんと要す 尤も欣ぶ名を遂げ功成りて後 共に弔魂場の花と作らんを 弔らわる人に入るべき身なりしに 弔う人となるぞはずかし 筆蹟混帖 長さ一丈二尺 巻頭東行狂生書 諸名家の作を集めたもの 慶応元年八月 日 招魂場祭事
七 卿 史 跡 維新回転発祥地 櫻山招魂場を視察 文久三年(一八六三)八月十八日の政変により、三條實美卿等七卿は、京都妙法院をあとに、西下長州に向う。 翌元治元年三月二十六日、六卿は馬関砲台を巡視発程の途上錦小路は病を発し、二十九日彦島巡視の予定を延べ同日晴八ッ時五卿方招魂場ご覧あり、帰路鋳造場へ立寄らる。 頼徳卿は馬関にて靜養中遂に客舎にて逝く追惜何ぞ堪えんや 櫻 山 神 社 (掲示板説明)