高杉晋作終焉の地

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日清講和記念館
記念館

 明治28年(1895年)3月20日から、料亭「春帆楼」において日清戦争の講和会議が開催された。この会議には日本全権の伊藤博文、陸奥宗光、清国全権の李鴻章をはじめ両国の代表11名が出席した。講和に向けて会議はくり返し行われ、4月17日に講和条約が調印された。
 この記念館は、日清講和会議と下関講和条約の歴史的意義を後世に伝えるため、昭和12年(1937年)6月、講和会議の舞台となった「春帆楼」の隣接地に開館された。講和会議で使用された調度品、両国全権の伊藤博文や李鴻章の遺墨などを展示している。また、館内中央には講和会議の部屋を再現し、当時の様子を紹介している。

明治28年(1895年)3月24日、第3回目の会議を終えた李鴻章は、宿舎である引接寺への帰途、小山豊太郎という青年に狙撃された。この事件によって会議は一時休会し、負傷した李鴻章には明治天皇をはじめ各方面からも多くの見舞いが寄せられた。そのかいもあり、まもなく李鴻章は快復し、4月10日に会議は再開された。
 事件後、李鴻章は大通りを避け、山沿いの小径を往復した。
この小径は、いつしか「李鴻章道」とよばれるようになった。

春帆楼は、もと阿弥陀寺の方丈のあった所で、同寺が廃寺となった後、もと豊前の国の眼科医藤野玄洋が買収して、医院を営んでいた所であるが、玄洋の死後、未亡人ミチが旅館兼料亭として経営し、明治28年(1895年)3月に開かれた日清講和会議の会場に使用されたことにより、一躍全国にその名を知られるようになった。

会議の部屋
会議の部屋
伊藤・陸奥胸像
伊藤・陸奥胸像