高杉晋作終焉の地

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赤間神宮

赤間神宮の起源は、阿弥陀寺である。阿弥陀寺は貞観元年(859年)大安寺の僧行教により、浄土宗の寺として開山された。寿永4年(1185年)3月24日の源平壇ノ浦の合戦において、二位の尼とともに海中に身を投じた安徳天皇の菩提を弔うため、建久2年(1191年)御影堂が後鳥羽天皇の命により建立された。以来皇室及び武家、なかでも大内・毛利両氏から崇拝された。江戸時代から真言宗に改宗し、長府藩主から30石を、後承応元年(1652年)57石を与えられるなど隆盛を誇った。
 明治3年(1870年)神仏分離令により阿弥陀寺を廃し御影堂を天皇社と名称を改めた。天皇社は明治8年(1875年)官幣中社となり社号を赤間宮と改め、更に昭和15年(1940年)に官幣大社となって社号を赤間神宮と改めた。

赤間神宮
赤間神宮
安徳天皇阿弥陀寺陵  安徳天皇阿弥陀寺陵
耳なし芳一像  耳なし芳一像
平家一門の墓  平家一門の墓
先帝祭

 先帝祭
 祭は、毎年4月23日から25日の3日間にわたって行われていましたが、昭和60年から5月2日から4日まで行われ、その中心となる「上搏ケ中」は3日と定められています。

 寿永4年(1185) 3月24日、源平壇ノ浦合戦により安徳天皇をはじめ平家―門は滅亡しました。
 辛うじて生き残った女官たちは、その後も先帝のご命日には欠かさず参拝をし、それが現在にまで受け継がれて来たといわれています。上搏ケ中では、代々伊崎の中島家が大紋、長袴で先導役を務め次の順に参拝します。
稚児 2名(千早、天冠)
警固 2名(白衣、緋袴、侍烏帽子)
禿  2名(振袖、手箱及び花筒捧持)
上掾@1名(立兵庫と称する揚髪で、笄多数を差す。打掛け、三本歯下駄)
以上を1組とし、合わせて5組が参拝しますが、特に最後に参拝する上揩「傘上め」といいます。
               下関市教育委員会

先帝祭