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 米海大ナウ!

ペリー提督

(058 2016/04/21)

米海軍大学   客員教授
1等海佐    下平   拓哉

   1794年4月10日は、マシュー・ペリー(Matthew C. Perry)の誕生日です。

【ペリーが若き日にかぶっていた帽子】

   「太平の眠りを覚ます上喜撰、たった四杯で夜も眠れず」日本人にとっては馴染みの深い黒船来航のペリーは、米海大が所在するロードアイランド州ニューポート出身と言われています。マシュー・ペリーは、米海軍大佐であった父クリストファー・ペリーとサラの第4子として生まれ、兄オリバー・ハザード・ペリーは、1812年の米英戦争エリー湖の戦いにおける米海軍の英雄であり、米海軍オリバー・ハザード級駆逐艦のネームシップとなっています。この兄弟にはちょっとしたエピソードがあり、マシューは、生まれた日は定かですが、生まれた場所は、ニューポート近傍のサウ  ス・キングスタウンと言う説もあり定かではありません。一方で、兄のオリバーは生まれた場所はサウス・キングスタウンと定かですが、生まれた日は諸説があり定かではありません。
   マシュー・ペリーは15歳で海軍士官候補生となり、地中海におけるアルジェリア海賊との戦いなどを経て、1821年、初めて「シャーク」艦長の任に就きます。1839年、当時最新の蒸気船「フルトン」の初代艦長となり、蒸気船の優秀性を明らかにしたことから、「蒸気船海軍の父(Father of the Steam Navy)」と呼ばれています。そして、1846年からの米墨戦争では、メキシコ湾艦隊司令官として大活躍します。

【ペリーが当時使用していた六分儀】

   1852年3月、ペリーは東インド艦隊司令官に任命され、1852年11月24日、フィルモア大統領の親書を携えて、米東海岸のノーフォークを出航しました。米国がペリーを日本に派遣した最大の理由は、蒸気船時代の石炭補給基地の必要性ですが、その他遭難した乗員の療養と貿易のためと言われています。当初12隻の予定でしたが、艦隊の編成が間に合わず、「ミシシッピ」だけの出航となり、かつ蒸気船用の給炭地が太平洋上にないため、大西洋を渡ってアフリカ、インド、中国を経るという東回りの航路を取りました。

   1853年5月、上海で旗艦を「サスケハナ」に交代し、琉球を経て、7月8日(嘉永6年6月3日)、最新鋭蒸気船「ミシシッピ」「サスケハナ」と帆船「サラトガ」「プリマス」の4隻の黒船は、浦賀沖に来航、日本に開国を迫りました。この記録は、1856年に『アメリカ艦隊の中国海域および日本遠征記』として出版されています。
   そして、翌1854年2月13日、ペリーは「ポーハタン」ら7隻、1600名を率いて再び浦賀沖に来航、3月31日、日米和親条約を結び、下田と函館を開港しました。その後、下田を訪れたことから、1958年以降、ニューポートと下田は姉妹都市となっており、ニューポートでは毎年7月中旬、下田市等からの代表団を招いて、盛大な黒船祭りとペリーの墓前祭が催わされています。

【ニューポートにあるペリーの墓】 【ペリーが住んでいたニューポートの家】

   1945年9月2日、太平洋戦争の降伏調印式が戦艦「ミズーリ―」で実施されました。そこは、1854年、ペリーの旗艦「ポーハタン」が投錨した場所であり、ペリーの31星の星条旗が飾られました。掲揚がさかさまであったのは、表がほころびこびりついていたと言われていますが、国旗をさかさまに掲揚することは国家の一大事を示す場合とも言われています。

(2016年4月5日記)