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 米海大ナウ!

 ウィリアム・プラット提督 

(051 2016/03/22)

米海軍大学   客員教授
1等海佐    下平   拓哉

   1869年2月28日は、ウィリアム・プラット(William V. Pratt)の誕生日です。

【校長室前廊下に掲示の肖像画】

   知日派の米海軍軍人で忘れてはならない人物が、プラットでしょう。メイン州ベルファーストに生まれ、父が上海蒸気船舶会社に勤めていた関係で幼少期の8年間を中国で過ごしています。
   1889年に米海軍兵学校卒業。1898年、秋山真之が視察した米西戦争時のキューバにおける封鎖作戦に参加。1911年から1913年、米海大の教官をしていますが、米海大の学生にはなっておらず、1917年に米陸軍大学を卒業しています。装甲巡洋艦「ニューヨーク」艦長などを経て、1925-27年、第18代米海大学校長に就任しています。
   米海大では注目に値するような大きなカリキュラムの見直しを実施しています。
   第1に、特に戦略と戦術に係る必読文献を増やしたこと。
   第2に、後方を重視したこと。
   第3に、陸軍との協同作戦を重視したこと。

   このように、戦略・戦術・後方の関係、他軍種との協同の重要性を認識し、関連する豊富な学術資料を学生に提供する姿勢は、現代にも脈々とつながっております。

   また、プラットが米海大学校長の時に実施した「タイプへの戦術の影響(Influence of Tactics on Type)」と題する講義録が残っています。
   「平時において軍艦は不可欠。警察官のようなものであり、多くの様々な任務を遂行しなければならない。そして数的に十分必要であり、適切に配備されなくてはならない。したがって、経済的でなければならない。」
   今も昔も、軍事、外交、警察からなる海軍力の役割は変わらず、能力に応じた兵力の適時適切な配備、そして費用対効果は不変の鉄則でしょう。


   1930-1933年、第5代海軍作戦部長を務めており、米海大学校長経験者で米海軍トップまで登り詰めた唯一の人です。非常に頭脳明晰であったため、退役後も引き続き活発な学術活動を行っています。太平洋戦争開戦の直前には、再度半年間任用され、大西洋方面におけるドイツ潜水艦の脅威に対抗するため、護衛空母や飛行船の研究に従事しています。また、ジョゼフ・グルー(元駐日大使、国務次官)と並び称される知日派でもあり、太平洋戦争直前の日米交渉において、野村吉三郎駐米大使・海軍大将とコーデル・ハル国務長官の交渉が繰り返されるなか、米側からの最期通牒と言われるハル・ノート手交の約1か月前の10月25日には野村・プラット会談も実施しています。残念ながら、その会談内容は未だ不明です。しかし、米海大歴史学部アーカイブには、野村とプラットの仲を裏付ける多くの資料が眠っています。

(2016年2月27日記) 

【米海大歴史学部アーカイブ所蔵プラット関連資料】
① 1941年8月26日、野村からプラット宛ての礼状
② 1953年12月8日、野村からプラット宛てのクリスマス・カード