海上自衛隊幹部学校

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 戦略研究会

 大分に眠るドイツ海軍兵への墓参
~ 青島の戦いを振り返る ~

(コラム149 2019/12/16)

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はじめに
    在京ドイツ大使館国防武官カーステン・キーゼヴェッター大佐(Karsten Kiesewetter) の曽祖父の弟であるユリウス・パウル・キーゼヴェッター後備海軍歩兵(Julius Paul Kiesewetter)は、第一次世界大戦中の青島の戦いで我が国の捕虜となり、大分市の捕虜収容所において、1917年5月9日に病死している1。同武官は、2019年12月7日に102年の時を越えた墓参を果たした。
    墓参に際しては、前勤務先での接点から墓の所在地に関する調査に協力した2私(海幹校 本名1佐)と長野晋作1佐(海幕装備需品課資材班長)が同行した。
    本コラムにおいては、この墓参について紹介し、J.キーゼヴェッター氏が捕虜となった「青島の戦い」について海戦史の視点から簡単に振り返る。

1 102年目の墓参
    眼下に大分市内を見下ろす閑静な「桜ケ丘聖地」(大分陸軍墓地)の奥にその墓はある。そこには、日清日露の戦い以降の大分から出征し、戦没した陸軍軍人の墓石が一面に広がっていた。

 
 図1:大分陸軍墓地の一角(赤枠内がキーゼヴェッター氏の墓)

    J.キーゼヴェッター氏の墓前に着いた私たちは、花を供え、厳かに拝礼した。

 
 図2:J.キーゼヴェッター氏の墓

    武官によれば、両親をはじめとするドイツ国内のキーゼヴェッター一族は、この時間、遠く大分に思いをはせていたという。祖国から約6000km離れた大分に1人眠る親族を、100年以上も気にかけ続けた同一族の祈りは、この日のキーゼヴェッター大佐の墓参によって遂に大分に届くこととなった。
    また、J.キーゼヴェッター氏の墓の隣にドイツ海軍兵がもう1人眠っていた。キーゼヴェッター氏が亡くなる1年前に同じく大分で病死したリヒャルト・クライン後備海軍歩兵(Richard Klein)の墓3であり、私たちは、同様に花を供え、冥福を祈った。

 
 図3:クライン氏の墓

    私たち3名は、クライン氏にも子孫による墓参が行われる日が来ることを祈らずにはいられなかった。

2 青島の戦いを振り返る。
    本項では、大分で亡くなった2名の海軍兵が捕虜となった経緯について、青島の戦いを海戦史の視点から簡単に振り返ること及び両海軍兵の階級特技を確認することで考察したい。
(1)青島の戦いにおける海戦
    1914年7月の第一次世界大戦開戦当時、「シャルンホルスト」、「グナイゼナウ」、「エムデン」のような有名な巡洋艦が青島を基地として使用していた。それ故、英国にとって、その港は潜在的脅威の場所であり、日本にとっては、それはおそらく自国の商業活動への障害とみなされていたのであろう。青島はまた中国の戦略的鉄道と結びつくドイツ鉄道の終着点でもあり、日本が無視し得ない場所であったのである4
    そのため、開戦直前の帝国海軍軍令部作戦方針は、1個艦隊により膠州湾を封鎖し、青島を陸軍との共同により攻略することとしており5、実際の作戦もこの方針にしたがって行われ、1914年8月27日加藤定吉中将の率いる第2艦隊は膠州湾に展開し、封鎖を宣言した。
    また、青島の戦いは、前述のとおりこれを脅威としていた英国との連合作戦が行われたことが特筆すべき点である。
    これに対して独海軍の主力である「シャルンホルスト」、「グナイゼナウ」は太平洋に、「エムデン」はインド洋に開戦当初に通商破壊を目的として離れていた6ことにより小型艦艇による小規模な海上作戦及び機雷敷設しか実施できなかったことから、結果的には日英海軍の海上封鎖を実現させることで早期の日英連合軍による砲撃、上陸を含む青島攻略戦を招くこととなる。
    ではなぜドイツ海軍は、このような重要な拠点から早期に主力艦を離れさせたのだろうか?
    海洋戦略の問題にその答えを求め、ドイツ海軍指導部の作戦計画はすべて戦闘に集中しており、あらゆる海戦指導の本来の目的-自国の安全と敵海上ルートの遮断-は、ほとんど視野から抜け落ちていた7ことによる戦略眼の欠如とするのはたやすいが、英国海軍と比較すれば巡洋戦艦以上の保有隻数は劣勢であったことから、主戦場と考えられた北海以外の海域に十分な兵力を割く余裕がなかったものと考えられ、当時のドイツシーパワーに限界があったものと考えられる。
(2)青島攻略戦
    日本軍による青島攻略は、10月31日から陸軍は神尾光臣中将の率いる第18師団を主力として行われた。海軍の第2艦隊は、第18師団の攻撃に策応し、英戦艦「トライアンフ」とともに「周防」、「石見」による陸上砲台への砲撃を実施した8。約7日間の陸海軍による砲撃の末に突撃を断行しようとした時、11月7日ドイツ側に白旗が掲げられた9
    その結果、両海軍兵は、日本の捕虜となったのである。
(3)両海軍兵の階級・特技
    両海軍兵の階級は、墓碑などから「海軍後備歩兵」と見られる。ここでいう「後備」は、当時の帝国陸海軍において「予備役を終えた者が服す兵役であり、後方警備部隊等の要員にあてられた。」10とされる後備兵役に相当する階級立場の者との尋問の結果、判断されたと考えられる。
    また、「歩兵」についても尋問の結果として、陸上警備に任じる者と判断されたと考えられる。

    以上から、両海軍兵は、第一次世界大戦開戦時にドイツにとり重要な港湾であった青島の陸上警備11に任じており、日英連合軍の海上封鎖を経た攻略戦による降伏の結果、捕虜となったものと経緯を整理できる。

おわりに
    大分に眠る2名の海軍兵への墓参を契機として、第一次世界大戦の青島の戦いを振り返ることで、あらためて海洋戦略の重要性を認識した。特に当時のドイツのシーパワーに限界があったことが敗戦の大きな要因、背景と考えられ、大陸国家における海洋戦略への課題という点では、現下の国際環境との近似性から重要な示唆を包含するものである。
    時代は流れ、かつては現在の中国本土において戦った日独両国の交流はあらゆる面で進みつつある。海上防衛という点では、中東ソマリアでの海賊対処において、海上自衛隊の艦艇とドイツ海軍の艦艇は、同じ海域で海洋秩序の安定という共通の目標に向けて共に汗を流している。
    奇しくも今般の墓参は、海上自衛官2名の手により支援することができたが、私的な交流ながら日独両国の防衛交流上のキーパーソンであるキーゼヴェッター武官との友情は、日独の交流促進に寄与し得るものと自負する。
    こうした出来事の積み重ねによる日独交流の進展を大分に眠る二人の海軍兵は、静かに見守っていることだろう。

(海上自衛隊幹部学校 戦史統率研究室 本名 龍児)

(本コラムに示す見解は、海上自衛隊幹部学校における研究の一環として執筆者個人が発表したものであり、防衛省・海上自衛隊の見解を表すものではありません。)

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1 安松みゆき「大分にあった俘虜収容所」『芸術学論集』第18号(2009年)
    J.キーゼヴェッター氏の葬儀の模様を当時の画像も用いて描写するとともに現在の墓の様子も述べられており、今回の墓参を実現する契機となった。
2 調査の経緯は、次に記載されている。
    長野晋作「大分に眠るドイツ兵がもたらした日独交流」『戦史秘話』防衛研究所HP 2019年
3 陸軍省俘虜情報局編「俘虜写真帖」(1918年) 国立国会図書館
    最盛期には、全国で11か所あった俘虜収容所の写真集として捕虜の日常生活が撮影されており、当時の様子を視覚的に理解できる史料である。また、リチャード・クライン氏の葬儀の画像が掲載されている。
4 イアン・ニッシュ著、奥村大作訳「日英同盟と第一次世界大戦」『近代日本戦争史 大正時代』紀伊国屋書店 1995年 p105
5 海軍歴史保存会編「第一次世界大戦の日本海軍」『日本海軍史第二巻 通史第三編』第一法規出版社 1995年 p287
6 外山三郎「遠隔地での海戦」『近代西欧海戦史』原書房1982年 p126、131
7 ラーン・ヴェルナー著、山田義顕訳「第一次世界大戦期におけるドイツ海戦指導の戦略問題」『人文学論集』2010年.28号 p6
8 海軍歴史保存会編「第一次世界大戦の日本海軍」p309
    また、「周防」「石見」の2艦は、日本海海戦においてロシアから捕獲した艦としても知られる。
9 外山「遠隔地での海戦」p136-137
10 長野耕治、植松孝司、石丸安蔵「日本軍の人的戦力整備について(研究ノート)」『防衛研究所紀要』第17巻第2号(2015年2月)
11 キーゼヴェッター大佐によれば、J.キーゼヴェッター後備歩兵の所属は、第3海兵大隊第6中隊であったと伝えられているとのこと。

図1~3:筆者撮影