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 戦略研究会

 米国防省の新たな軍事戦略(第3の相殺戦略)について(その3)

(トピックス036 2016/07/05)

   今回は、1950年代に採られたアイゼンハワー大統領の“ニュールック政策(New Look)”に関する概要とともに教訓を抽出している部分の紹介である。

********************************* 目 次 **********************************

   序 言(Foreword)

   要 旨(Executive Summary)

   イントロダクション(Introduction)

第1章:「第3の相殺戦略」の先行事例
・ニュールック政策

・相殺戦略
・“第3の”相殺戦略に向けた機会と課題

   第1章:「第3の相殺戦略」の先行事例

   第2章:現状における米国戦力投射へのアプローチの欠点

   第3章:新たな相殺戦略の鍵となる要素

   第4章:新たな相殺戦略の実行:グローバルな監視及び打撃構想

   結 言(Conclusion)

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新たな相殺戦略に向けて(仮訳)
Toward A New Offset Strategy

■第1章:“第3”の相殺戦略の先行事例

   安全保障上増加する広範囲の脅威に、横ばい又は減少する国防予算内で対処するための国家安全保障戦略を構築するという今日の課題に対して、2つの最も強力で歴史的に比類のない政策は、1950年半ばのドワイト・D・アイゼンハワー(Dwight D. Eisenhower)大統領の“ニュールック政策(New Look)”であり、1970年半ばのハロルド・ブラウン(Harold Brown)国防長官の“相殺戦略(Offset Strategy)”である。どちらの場合も、ワルシャワ条約機構の通常戦力が米軍とNATO軍のそれを著しく上回っていた。前者の期間では、米国は群を抜く核戦力の強みを失うとの見方に直面し、後者の期間では、核の均衡を喪失してソ連との著しい量的差異によって国防支出を超過していた。本章では、同時代の観点で教訓を抽出するために双方の期間について調査し、“第3の”相殺戦略の作成に関連する重要な機会及び課題を考察する。

●“ニュールック政策”

   1953年1月にハリー・S・トルーマン(Harry S. Truman)政権が終了したが、第二次大戦のトラウマは依然消えることはなく、軍事力削減には結論は出ず、費用のかかる朝鮮戦争は未だ終結していなかった。“自由世界”に対してますます増大するソ連の脅威に直面しながらも、満了しつつあるトルーマン政権はNSC-141を発出した。これは、NSC-68及びNSC-135/31に明記されている封じ込め戦略の目的に見合う、すべての国防支出における重大な増加に対応するためのものである。

   新たに選出されたアイゼンハワー大統領は、ソ連政府が選定した期間及び地域において仕掛ける限定的紛争が米国を疲弊させるのではないかと懸念するとともに、無期限に莫大な国防支出を維持するための米国経済について不安を感じていた。大統領選の間、国家安全保障は米国本土の物理的な防衛に限るものではなく、アメリカの価値観、社会制度及び経済システムの保護手段も含むものであると主張した。アイゼンハワーは、“戦場でアメリカが打ち負かされることよりも、経済的に破綻したアメリカはソ連が望む姿なのである。”と1952年に述べている2

   したがって、1953年に政権が発足してから時を開けずして、彼は2つの原則に基づく国防政策の高官レベルの見直しをこのように命じた。“第1に、将来的な共産勢力を抑止するに十分な軍隊を保有しなければならない。第2に、それらの兵力は国家の経済状況が弱まった際にも維持されなければならない3。”
   ジョン・フォスター・ダレス(John Foster Dulles)国務長官は、経済的な安定及び軍事力の強さは不可分であるとの認識を共有した。彼は“仮に経済状況が極めて悪化しても、すべてはなるようになるものだ4。” と記している。この政策の再検討の最重要事項は、1953年6月~7月に国防大学で実施された“プロジェクト・ソラリウム(Project Solarium)”と呼ばれる高官レベルの徹底的な計画立案訓練であり、これは“長期間(long pull)”にわたるソ連の抑止と封じ込めのための代替案を見出すためのものであった 5

   参考として、その訓練期間に中央情報局(Central Intelligence Agency : CIA)は、ソ連の通常地上兵力の規模を175個陸軍師団に加え、1か月で機動可能となる125~145個の予備役師団と見積もった6。1953年までの比較では、米国は概ね26個師団相当の現役陸軍に加えて海兵隊3個師団(すなわちソ連軍の17%)を配備しており、有事に加えられるであろう予備役兵力はおおよそソ連の25%程度であった7。米国は、1952年末にはソ連の保有弾頭推定120基に比して841基と核兵器では実質的にリードしていた。さらに重要なのは、ソ連が年間おおよそ100の割合で追加するのに対して、米国は年間数100の割合で核兵器を追加し続けていたという事である8
   加えて米国は、1952年11月1日、アイヴィマイク作戦(Operation Ivy Mike)と呼ばれる初めての大規模熱核爆破装置実験を行っている。10メガトン以上の爆発エネルギー -すなわち、概略TNT爆薬数10キロトンと測定される爆発エネルギーを有する同時代の原子爆弾の1000倍の威力- を有した装置は、核競争の様相を劇的に変化させた。米国はまた、ジェットエンジン搭載のB-47ストラトジェット、大陸間を飛行可能なB-52ストラトフォートレスのような、さらに能力のある長距離爆撃機を配備し続け、ヨーロッパ、アジア及び北アフリカに核攻撃支援のための海外基地を設けた。対照的に、ソ連は旧式の中距離プロペラ爆撃機を増産したのみであり、米国の近傍には基地を設けなかった。

   “ソラリウム”研究の努力は、NSC-162/2で頂点に達し、1953年10月に終結した。これにより、トルーマン大統領の国防戦略は大きく2つの道筋に改められることとなった。

1つ目はソ連の侵攻に対応する戦略及び戦術核の使用を含む“攻撃的な打撃力による大規模な
報復的被害”を与える恐れである。

   それは、ソ連による侵害を、国防支出の実質的増加を必要としたであろう (朝鮮の事例同様)通常戦力を主に使用した抑止を試みる代わりとした9

2つ目は、“戦略的非対称性”の採用である。

   それぞれの戦闘領域において直接対応する代わりに、米国が選択した手段及びソ連と中国の共産主義者の“中心地域”も含む場所で、報復によってコストを強いるというものである。
   さらに具体的には次のように述べている。

   ソ連侵攻のリスクは、十分な積極的報復兵力及び防衛力を主眼とした強固な安全保障体制の維持
によって最小限になるであろう。これには大規模な核戦力を基盤としなければならならず、必要な基
地、統合された効果的な本土防衛システム、適切に配備され抑止に十分で初動侵攻に対処できる米
国と同盟国の即応軍...(中略)...十分な機動拠点及び米国民の断固たる精神に支えられている
すべてのものが含まれる10

   アイゼンハワーは1953年12月の国家安全保障会議において、“我々は米国を武装キャンプ及び要塞国のままにはできない。もし我が国が戦争に巻き込まれたならば原子爆弾を使用する策を講じねばならない。”と述べた11。ダレス長官はこの戦略を1954年1月の外交委員会での演説で公式に発表した。この演説から“大量報復(massive retaliation)”なる用語が作り出され、一般の語彙として取り上げられることとなった。この演説で、長期的な経済支出力と軍事力との関連が明示的なものとなったのである。

   “我々は、我々と他の自由圏諸国のために、最大限の抑止を見合ったコストで望む。”とはダレスの言であり、その実現のためには“地域防衛は、大量報復力の更なる抑止によって補強されなければならない。12”この宣言的な政策の信頼性を強めるために、政府高官らは、原子力兵器は“通常兵器”とは異なる扱いにはならない、と繰り返し主張した。“これらの兵器が厳密に軍事目標に対して厳密に軍事目的のために使用されるならば”、アイゼンハワー大統領は1955年初頭に中国と台湾の金門島と馬祖島をめぐる対立の状況下で、“弾丸またはその他の武器を使用するのとまさに同じように、それらの兵器が使用されるべきではないとする理由を見つけられない13。” と述べた。

   特にニュールック政策は、コスト削減下で米国の政策を達成するための諜報活動、破壊工作及び隠密作戦(covert operation)に重点的に依存するものであった。国務長官の弟であるアレン・ダレス(Allen Dulles)が当時CIA長官を務めており、1953年と54年それぞれにイランとグアテマラの共産主義に傾倒した政府を転覆させている14。アイゼンハワーは、同盟の役割にもさらに重点を置き、既存の2国間及び多国間の同盟を強化し、東南アジア条約機構(South East Asia Treaty Organization : SEATO)やバグダッド条約機構(Bagdad Pact)(後の中央条約機構(Central Treaty Organization))のような新たな同盟を追求した。彼は、ヨーロッパ及びアジアにおける米国人兵力を徐々に同盟兵力に置き換えたいと考え、それによって、国防予算への圧力を軽減しようとした。広い意味で、地域防衛のために常備地上軍を維持する財政的負担を同盟国が肩代わりする一方で、ソ連の侵攻を抑止するために必要な核の傘を米国が提供することで責任を分割する態勢を彼は描いていたのである15

    アイゼンハワー、ダレスほか政府高官は、特に1953年の予期せぬソ連の突然の水爆実験及び1954年のメーデーパレードにおけるジェット推進試作機のM-4バイソン爆撃機の登場の結果として、ソ連はついに原子力兵器(atomic weapons)で米国本土に脅威を与えることができるようになったと認識した。しかしながら、米国政府は、国防予算を削減しうる限り発射可能な核弾頭での優勢を維持・強化するのと同時に、同盟国の軍備構築とともにソ連の全体主義政策の本来の脆弱性を明らかにするための時間を稼ぐよう模索していた。

   それを反映して、アイゼンハワー政権は核競争における優勢を維持するために、水素爆弾の急速配備、1952年の第一回実験を含む数段階の早期対策を取った。これには、大陸間を航続可能なB-52重爆撃機の取得の加速、同じく、液体燃料搭載アトラス及びタイタン大陸間弾道弾(intercontinental range ballistic missile : ICBM)、西ヨーロッパ向けトール中距離弾道弾(intermediate range ballistic missile : IRBM)の調達拡大がある。

   米ソ核兵器競争は1950年代後半に最高潮となったものの、終わりのない財政支出ゆえにアイゼンハワー政権は完全な核優勢を追求するのをやめ、ソ連の先制攻撃を受けた後にソ連に許容できない被害を負わせるための“適切な(adequate)”核兵力の維持に舵を切った。

      この政策期間の主要な投資は以下のとおりである。

空軍空中給油能力の大幅な拡大

      中距離爆撃機B-47部隊の、ヨーロッパからソ連の航空及びミサイル先制攻撃を受けにくい米国
     本土への後退を支援する。

米国の防空、ミサイル防衛網の強化

      ソ連の爆撃機に対する遠距離早期警戒網(Distant Early Warning : DEW)及び弾道ミサイル早期
     警戒レーダーシステム(Ballistic Missile Early Warning : BMEW)を含む。

固形燃料ICBMの開発促進

     例:1961年試験発射、1963年実用配備のLGM-30ミニットマン、1961年試験発射、1963年に原子
     力潜水艦ジョージ・ワシントンに配備された潜水艦発射のポラリス

ICBM発射筒の装甲化、爆撃機基地の分散化及びその他のパッシブ防衛手段への投資

   ソ連に対抗する通常型及び核戦争の計画双方をより良く満たすために、アイゼンハワーは、超高高度(70,000フィート)で偵察可能な、1955年に初飛行し1957年に実戦配備されたロッキードU-2“ドラゴンレディ”の開発・配備及び1956年に開発を開始し、1960年に実用化されたコロナ写真偵察衛星の開発・配備も支援したのである。

   上記事業とその他の“ニュールック”政策の新規構想への資金繰りのため、空軍への予算は戦略空軍(Strategic Air Command : SAC)分が増加し、一方で陸軍と海兵隊の予算は削減された。1952年度末時点で空軍の計画は、戦略飛行隊41個のSACへの配属を含む飛行隊総数95個を必要とした16。1954-1957予算年度間の国防計画を作成するにあたって、空軍は1957年までにSACに編入される92個飛行隊を含む全137個飛行隊を保有する目標に到達することになっていた。その3年の間、空軍へは国防省の総支出から海軍への22%、陸軍への22%に比して、平均47%を割り当てたのである<sup>17</sup>。  概して、1954年から1961年の間、陸軍の最終兵力の縮小率は、海空軍の14%、海兵隊の24%に比して40%近くにまでなっていた18。それらの削減のインパクトは更に増し、欧州同盟国は集団安全保障に貢献する地上軍が不足した。それは戦術核への更なる深い信頼を米国に強いることになり、同時に西欧で予想された兵力、1954年-1955年の台湾海峡、1956年のスエズ、1958年のレバノン及び台湾海峡での危機のように、その他の事態勃発に対応するためのより少ない可能兵力を残置したが、それよりも多くを維持することを強いたのである19

   財政上乗り越えられるコストでソ連を抑止するための原子兵器、長距離航空戦力及び弾道ミサイルでの先行性を強化するアイゼンハワーの“ニュールック”戦略は、概して効果的であった。彼は、トルーマン大統領の1954予算年度の予算案からおよそ70億ドル削減した。実際、1954予算年度と1961予算年度の軍事歳出は、パーセンテージにして連邦政府予算の66%から49%に削減したのである。国防支出が国民総生産に占める割合は、同期間に13%から9%に抑えられた20。1950年代後半までには、特に限定的な通常攻撃に応じた米国の“大量報復”の脅威の信頼性に対して、いくつかの開発によって疑問が投げかけられた。

・ソ連の核兵器の増加量及び洗練度(熱核兵器も含む。)
・大陸間航続可能なターボプロップ搭載のツポレフTU-95“ベア”重爆撃機
・1957年8月、ソ連のR-7ICBMの試験発射及びその2か月後のスプートニク人工衛星の打ち上げ成功
の結果として、メディアに公表された実在しない“ミサイルギャップ(missile gap)”

   米国の保有核弾頭数は、1960年現在のソ連のおよそ10倍で、大陸間弾道弾部隊は1962年までに3倍であったけれども、米国の核兵力は通常兵力への抑止力に関しては“無駄”であると一部からは考えられていた21。1956年、陸軍参謀総長マックスウェル・テイラー(Maxwell Taylor)大将は、“柔軟な対応(flexible response)”の戦略について提起した。これは、核戦争という手段への可能性を最小限とする通常兵力によるほとんどの危機の抑止に必要であるというものであった22。テイラーの議論は、後に西欧に駐留する通常軍の規模を増加することによって戦略の大きな部分を担う、来るケネディ政権に共感を与えた。

第2次大戦の結果として、核兵器によって与えられた破壊的な米国の科学技術優位性に匹敵するものが近い将来に現れることはなさそうであるが、現代に通じる5つの重要な教訓を見出すことができるだろう。

第1:“バランス”戦略の必要性

   国家が直面するあらゆる範囲での予想脅威に対して調整された戦略というこの教訓が、しばしば“ニュールック政策”に結び付けられる“大量報復”と表向きに食い違うように見えるかも知れないが、NSC162/2(訳者注:トピックス034参照)が“適切に展開し、十分に抑止又は初期段階で侵略に対抗する米国の即応兵力及びその同盟兵力”を必要としたことを忘れるべきではない。後者は、間違いなくアイゼンハワー政権時代の出資及び海外作戦によって生み出されたものであった。米国-ソ連比率、60対1(1950年)からおよそ10対1(1960年)に及ぶ核兵器における劇的な数字上の不均衡にあっても、有効な機動基地、世界をまたいで侵害に対抗し抑止するためのかなり大きな通常兵力を維持しつつ、米国はまだ本土防衛能力を拡大した。   核兵器は、通常戦力にとって代わる大幅な転換(whole sale replacement)ではなく、多勢な通常兵力に対する財政効果への“最後の砦”となった。ダレス長官は、“条件に応じて選択的あるいは混在した形の基準”が適用されるであろう“通常兵器と原子兵器の両方に支えられる航空、海上及び地上戦力”の様々な兵器を失わないようにする必要性に言及した24

第2:全世界規模の航空戦闘能力

   機動上の戦略的自由を得、敵の防衛計画を複雑にし、基地の脆弱性を低減する様々なることが可能となる。

第3:非対称的制裁

   敵によって選択された作戦戦域での“しっぺ返し(tit for tat)”の報復よりも、時間場所を問わずに柔軟な手段を用いれば、効果的な抑止の手段たり得る。

第4:隠密作戦(covert operation)

   注意深く使用される場合は、米国の国家安全保障の目的を達成するに現実的な選択肢を与える。

第5:同盟国

   負担の分担のみならず、敵の防衛計画を困難たらしめ、財政的な負担を強いるために必要である。

(その4に続く)

(幹部学校防衛戦略教育研究部 戦略研究室 松本裕児) 

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1この増加は、主として“本土防衛、民間防衛計画並びに中東、極東諸国に規模を拡大した経済及び軍事援助”に焦点が当てられていた。
NSC-141 in Department of State, Office of the Historian, Foreign Relations of the United States, 1952-1954, National Security Affairs, Volume II, Part 1 (Washington, DC: Government Printing Office [GPO], 1979), Document 42.
2マカホン(Robert McMahon)の引用による。“US National Security Policy from Eisenhower to Kennedy,” in Melvyn Leffler and Odd Arne Westad, eds., The Cambridge History of the Cold War, Volume I (New York: Cambridge University Press, 2010), p. 289.
3DoD, Semiannual Report of the Secretary of Defense and the Semiannual Reports of the Secretary of the Army, Secretary of the Navy, Secretary of the Air Force, January 1 to June 30, 1953 (Washington, DC: GPO, 1953), p. 3.
4Secretary of State John Foster Dulles, Statement to Senate Foreign Relations and House Foreign Affairs Committees, May 5, 1953 as quoted in John Lewis Gaddis, Strategies of Containment (New York: Oxford University Press, 1982), p. 134.
5 最初の会議がホワイトハウスの日光浴室で開催されたことから、この戦略見直しは“ソラリウム計画”と呼ばれた。Gaddis, Strategies of Containment, pp. 145-147.
6この部分はホフマン(Jon Hoffman)の記述による。
The New Look Strategy, OSD Historical Office Memo (Washington, DC: OSD, June 13, 2014). For additional details see: CIA, Probable Developments in the World Situation Through Mid-1953, Special Estimate (CIA, September 24, 1951); CIA, Soviet Capabilities for Attack on the U.S. Through Mid-1955 (CIA, March 5, 1953); CIA, Soviet Gross Capabilities for Attacks on the U.S. and Key Overseas Installations and Forces Through 1 July 1958, National Intelligence Estimate No. 11-7-55 (CIA, June 23, 1955).
7DOD, Semiannual Report of the Secretary of Defense, 1953, pp. 2, 104-106.
8Robert J. Watson, Into the Missile Age, 1956-1960 (Washington, DC: DoD, 2007), p. 457.
9“Defense Against the Soviet Threat,” in Executive Secretary James S. Lay, A Report to the National Security Council on Basic National Security Policy, NSC 162/2 (Washington, DC: NSC, October 30, 1953), Section 9. See also: Herman S. Wolk, “The ‘New Look’,” Air Force Magazine, August 2003.
10Lay, A Report to the National Security Council, Section 34, paragraph a.
11Melvin P. Leffler, For the Soul of Mankind: The United States, the Soviet Union, and the Cold War (New York: Hill and Wang, 2007), p. 139.
12Secretary of State John Foster Dulles, “The Evolution of Foreign Policy,” Speech to the Council on Foreign Relations, New York, NY, January 12, 1954.
13Eisenhower press conference, March 16, 1955, as quoted in Gaddis, Strategies of Containment, p. 149.
141957年のシリア及び1958年のインドネシアでの隠密作戦は、主たる失敗であった。
Watson, Into the Missile Age, p. 774; and Jerome Kahan, Security in the Nuclear Age (Washington, DC: The Brookings Institution, 1975), pp. 20-23.
15McMahon, “US National Security Policy from Eisenhower to Kennedy,” p. 294.
16その6つは重爆撃航空隊であり、20は中型爆撃航空隊であった。
Walton Moody, Building a Strategic Air Force (San Antonio, TX; Strategic Air Command, 1996), p. 391.
17Alfred Goldberg, ed., A History of the United States Air Force, 1907-1957 (Princeton, NJ: D. Van Nostrand, 1957), p. 117; David Alan Rosenberg, “The Origins of Overkill,” International Security, Spring 1983; and Moody, Building a Strategic Air Force, p. 460.
18Roger R. Trask and Alfred Goldberg, The Department of Defense, 1947-1997: Organization and Leaders (Washington, DC: Historical Office, OSD, 1997), p. 171.
19どちらの台湾海峡危機でも、アイゼンハワー政権は核使用の無言の脅しをしなければならないと感じていた。
Watson, Into the Missile Age, p. 774; and Jerome Kahan, Security in the Nuclear Age (Washington, DC: The Brookings Institution, 1975), pp. 20-23.
20Gaddis, Strategies of Containment, pp. 162-164; and Richard M. Leighton, Strategy, Money, and the New Look, 1953-1956, (Washington, DC: GPO, 2002), pp. 65-66.
21Lei1962年時点で、米国の核弾頭保有量はソ連の3,300基に対して27,000基を超えていた。米国は203基のICBMと144基のSLBMを配備しており、対するソ連はICBM36基にSLBM72基であった。ghton, Strategy, Money, and the New Look, 1953-1956, p. 655.
David Halloway, “Nuclear Weapons and the Escalation of the Cold War, 1945-1962,” in Leffler and Westad, eds., The Cambridge History of the Cold War, p. 387.
22Leighton, Strategy, Money, and the New Look, 1953-1956, p. 655.
23Robert Norris and Hans M. Kristensen, “Global Nuclear Weapons Inventories, 1945-2010”, Bulletin of the Atomic Scientists, July 1, 2010.
24John Foster Dulles, “Foreign Policy and National Security,” Statement before the Senate Committee on Foreign Relations, March 19, 1954, Department of State Bulletin, Volume 30, April 1954, p. 465.


 本コラムに示された見解は、幹部学校における研究の一環として発表する執筆者個人のものであり、防衛省または海上自衛隊の見解を表すものではありません。