イルカウォッチング

天草 四郎(あまくさ しろう)、元和7年(1621? - 寛永152月28日16384月12日)は、江戸時代初期のキリシタン
島原の乱の指導者とされている人物で、幕府の攻撃による原城陥落により自害したとされる[。本名は益田四郎(ますだ しろう)。
時貞(ときさだ)。洗礼名は当初「ジェロニモ」だったが、一時表向きな棄教をしたためか、島原の乱当時は「フランシスコ」だった。
一般には天草四郎時貞という名で知られる。本名については愛知時貞(えち ときさだ)という説もある。

島原半島と天草の間の海域には、約300頭の野生イルカが生息しています。

船上から手を伸ばせば、イルカに触れるほど近づくことができるため、感動もひとしお。

イルカとの遭遇率はなんと・・・99%!!

南島原市

ベイガ船長

元和の一国一城令で廃城となった原城は、1637寛永14年)に全国の耳目を集めることとなった。
世に言う「島原の乱」が勃発したのである。島原藩主松倉重政・勝家父子は島原城建設による出費などの財政逼迫により苛政を敷き、また、過酷なキリシタン弾圧を行ったことにより農民一揆を引き起こした。この一揆は島原半島のみならず天草にも飛び火し、島原城・富岡城が襲撃された。
しかし、一揆の攻城はうまく行かず、やがて一揆の群衆は天草の一揆群衆と合流し約37千人が廃城となっていた原城に立て籠もった。
小西行長の家臣の子孫といわれる天草四郎を総大将とし、組織だった籠城戦を展開し幕府軍と戦闘を繰り広げた。 一揆側は3か月に及ぶ籠城には兵站の補給もなく、弾薬・兵糧が尽き果ててきた。対する幕府軍も1千人の戦死者を出しながらも新手を投入し、ついに16384月11日から12(寛永152月27日から28)にかけての総攻撃で一揆軍を壊滅させ、一揆軍は(幕府に内通していた一名を除いて)老人や女子供に至るまで一人残らず皆殺しにされたという。
幕府軍は戦後、原城を徹底的に破壊した。その一方で、島原藩主松倉勝家は苛政により乱を引き起こした責任から、大名としては前例のない罪人としての扱いである斬首にせられた。

南島原市(みなみしまばらし)は、長崎県島原半島南部の
20063月31日
南高来郡加津佐町口之津町南有馬町北有馬町西有家町有家町布津町深江町8町が合併して発足した

原城

島原の乱

天草四郎

城郭遺構

原城(はらじょう)は、長崎県南島原市南有馬町乙にあった城で,国の史跡
島原半島
の南部に位置し、1496明応5年)日野江城の支城として有馬貴純によって築かれた。
有明海に張り出した丘陵にあり、本の丸、二の丸、三の丸、天草丸、出丸などで構成されていた。
有馬氏日向国延岡城に転封となった後の、1616元和2年)に松倉重政が日野江城に入城するが、一国一城令の影響もあり不便な日野江城を放棄し島原城を築城した。この際に原城も廃城となり、石垣や構築物も転用されたとされる。