80キロ行軍

80キロ行軍のはじまり

    

  昭和30年、平井学校長(初代)は、「高良山登山競走、暑中・寒中稽古及び行進歌の制定並びに隊歌演習」を伝統行事と定められたが、その翌年の昭和31年に、「背振山踏破行進」も伝統行事の一つと定め、在校間各期候補生は必ず「背振山踏破行進」に参加するようにPOIに組み入れられた。
 行進訓練は、伝統行事と定められた昭和31年以前の、昭和29年の開校当初から演習場における訓練に連接し霧島山、久住山、阿蘇山、背振山等の山地等において各学生隊(現候補生隊)の計画で実施されていたが、各学生隊により練成に差があり、また、この時期平井校長は質実剛健の気風の高揚及び校風に基づく継承すべき伝統の確立を推進されており、幹候校の所在する筑後平野を見下ろす山々の中で最も高い背振山(標高1,050m)を練成の場所と決め、一夜の露営訓練と山地踏破訓練を実施して、行進能力を付与するとともに、不撓不屈の気力と強靱な体力を養成する狙いをもって「背振山踏破行進」を伝統行事と定められた。
 その後、初めて「背振山踏破行進」を実施したのは、第15期U課程178名及び第18期I課程の233名であり、両課程は、7月深江海岸における遊泳訓練終了後、その帰路に背振山を横断する約50km(平坦地約20km、山地約30km)の踏破行進を1夜2日で実施した。
 昭和33年頃には、使用経路である背振山横断コースが、整備された自動車道と化し山地行進の色合いも薄れてきたことから、B・U課程に対しては、34年頃から福岡県前原市三坂付近を出発点とし、背振山系の約1千m級の県境尾根沿い(雷山〜井原山〜三瀬峠〜金山〜背振山〜蛤岳〜坂本峠〜七曲峠〜九千部山〜基山)を縦走し、基山町丸林付近を終了地点とする約80kmの2夜3日にわたる、極めて困難な「背振山縦走踏破行進」へと進化した。I課程については、年齢・体力・教育期間等を考慮し従来どおり1夜2日の約50kmの行進に変化はなかった。
 昭和38年に校歌が制定されたが、その第3番に「紅に背振を染めし、夕陽に向かいて立てば、鍛錬の歳月たのし」との歌詞があるとおり、当時候補生にとって背振山踏破行進を終わった後、夕暮れに背振連山を見るたびに標高約1千m級の道なき尾根沿いを約30kgの背嚢を背負い2夜3日にわたり、困苦欠乏に耐え疲労困憊を克服し、同期を助け踏破した日々を熱く思い起こし、そして将来困難な状況に立った時も何事をも克服できるという自信が湧いたと思われる。
 昭和42年からは、従来の徒歩行進に主体をおいた「背振山踏破行進」から、部隊を編成し、接敵前進(徒歩行進)に引き続く戦闘行動を行う「総合戦闘訓練」として候補生教育の総仕上げとしての位置づけに進化した。
 当時、戦闘行動のみの「総合訓練」は卒業前に実施していたが、昭和42年の教育体系の変更により各課程の教育期間が短縮されたのも理由の一つと思われるが、大野原演習場での最終野営訓練に引き続き、その帰路、馬神峠(佐賀県杵島郡北方町)を出発点とし、筑紫山系の縦走を含んだ多久〜厳木〜天川(天山北側)〜三反田〜鹿路〜広滝〜神崎〜天建寺橋(久留米市筑後川沿い)に至る約80kmを2夜3日で踏破し、引き続き高良台演習場において1夜準備の攻撃行動を実施した。
 天山は、標高1,046mの筑紫山地の最高峰であり、また佐賀県で最も有名な名山であり、候補生に対し不撓不屈の気力と強靱な体力を養成するためにも適した山であり、この山を含めた筑紫山系の縦走行進が実施されたと思われる。
 じ後、行進距離・使用地域・訓練要領に変遷はあるものの、この昭和42年の「総合訓練」の狙いが、約40年にわたり伝統として継承されている。なお平成17年から「80キロ行軍」と呼称しているが、平井学校長(初代)も「わが年月の大和魂」にて背振山踏破行進を「背振山登山行軍」と表現されており、また本訓練が単なる「徒歩行進」ではなく、「部隊を編成し長距離の山地踏破による接敵前進に引き続き戦闘行動を行う。」ことを考え合わせ、このように呼称している。

80キロ行軍の狙い

  

  「高良山登山走」が体力の限界を体験させる伝統行事とすれば、気力・体力の限界を体験させる 伝統行事が「80キロ行軍」であり、ライオンが子を谷底に突き落とす試練の例えどおり、候補生を部隊赴任(原隊復帰)前に、困苦欠乏・疲労困憊の極めて困難な状況に敢えて陥れ、そこから這い上がらせることにより、「剛健なる精神を保持し精強部隊育成の若きリーダーとなりうる資質・識能を総合的かつ最終的に付与する。」のが、本行事の伝統精神であり狙いである。

80キロ行軍実施に当たっての基本的な考え方

   

  1.  山地踏破 
     
    「80キロ行軍」は、「総合訓練」の主体をなすものとして、幹部候補生学校の教育訓練の総仕上げに位置づけられるものであり、候補生にとって試練の場となりうる九州の名だたる急峻な山地踏破を体験させる。 
  2.  約80kmの行進
     
    2夜3日で約80kmの行進を伝統的に実施しているが、この根拠は、@ 幕僚諸元に示されている「強行進の最大距離は、24h(1日)で54km、48h(2日)で100km」という基準となっているが、教育効果(徒歩行進後の戦闘行動)を考慮し、候補生の体力回復のため仮眠(8h)させた場合、実際の行進可能時間は30〜35hとなり、強行進を実施するとしても約80kmが妥当な距離である。
    A 部隊訓練基準に示された普通科中隊の到達基準は「1夜40km」であり、これを考慮すると2夜で80kmとなる。
     また、昭和34年以来、行進距離約80kmを基準として山地踏破行進を実施(約100kmの行進を実施した昭和54年から3年間を除く。)しており、「2夜3日で約80kmの行進」は、伝統的なものである。
  3.  指導上の考え方
     
    戦闘行動下における肉体的・精神的苦痛を十分体験させ、疲労その極に達した状態において、なお気力を振起し、的確な戦闘指揮ないし隊員(逞しい戦士)としての行動を要求することを指導の基本とする。
     このため、区隊長自ら剛健精神の範を示すとともに、剛健休憩(背嚢を下ろさず、座らず)や剛健ピース(背嚢に入れる重石)の使用を推奨する等困難に立ち向かう挑戦心を督励する。
  4.  愛校精神の醸成
     出発時の見送り、帰校時の出迎えを挙校一体となって実施するとともに例年、行軍間に武雄地区防衛協会による激励が実施されているが、地元住民からの陸上自衛隊幹部候補生に対する暖かい激励を受けることにより、候補生に「80キロ行軍」参加の意義と誇りを自覚させ愛校精神の醸成に寄与する。

         

「80キロ行軍」の昭和42年以降の変遷

             

  1.  総合訓練としての定着 
     
    昭和42年の第42期B課程は「総合戦闘訓練」として、卒業前の大野原演習場での最終野営訓練に引き続き、筑紫山系の縦走を含み約80kmを2夜3日で踏破し、引き続き高良台演習場において1夜準備の攻撃行動を実施したが、これは、昭和45年のB・U課程まで続いた。
     I課程については、既に昭和44年の第46期I課程から耳納山系を使用した約80kmの行進に引き続く高良台演習場での戦闘行動の「総合訓練」を実施していた。これは、I課程の「総合訓練」の時期が冬場となり背振山系が積雪により使用できないことが多いため、それまで実施していた筑紫〜背振山系の険しいコースを避けた平地経路を使用した踏破行進が多かったこと等により候補生に与えた印象も薄く、また車両通行の頻繁な佐賀平野を昼間横断する経路という問題点もあり、第3候補生隊長滑石2佐(当時)の「高良山登山競走に優るとも劣らぬ強烈な印象を与えうる訓練とすべし」との発議により耳納山系(主力:間地〜鬼塚〜黒木〜高良台、一部:片瀬石〜千足〜高良台)の山地踏破行進に引き続き、高良台演習場において対抗方式の戦闘訓練を実施した。
     昭和46年からB・U・I課程とも、耳納山系での山地踏破行進に替わった。使用した経路は、年度により、また期別により異なるが、いずれも耳納山系の尾根沿いや谷地を踏破する起伏のある困難な経路であった。耳納山系を使用した「総合訓練」は、昭和53年まで続いた。
  2.  100km行進の実施
     
    昭和54年からは、B・I・OPC課程とも約100kmの山地踏破行進が実施された。昭和54年度の学校史には「戦闘訓練及び野外勤務の総まとめとして、3夜4日にわたる約100kmの徒歩行進に引き続く中隊以下の接敵行進及び遭遇戦を実施し、部隊行動の流れと小部隊の指揮要領を修得させた。また、本年度から行進距離を増大(約25km)するとともに、対抗方式を採用して教育成果の向上を図った。」と記されているが、行進距離が延長された背景には、昭和54年の教育体系変更に伴い、従来の「総合訓練」のあり方も検討され、その際、当時の候補生の足腰の弱さを是正する狙いもあったと思われる。
     当時の横山学校長(第14代)が、候補生の戦闘訓練を視察された際のことを想い出の記に次のように記されている。『「早駆け」の最中に候補生がよく転ぶのである。僅かな起伏があったり、草地に土が露出していたりすると、躓いてつんのめったり、ひっくりかえったりする。勿論そういう候補生ばかりではない。或いは数人だったかもしれない。ただ、私にはこんな光景は初めてだったので、大袈裟に印象づけられたのだろう。しかし、これだけは言える。殆どの候補生の足腰の弱さである。』 
     100km行進は、昭和54年から56年までの間であり、大野原演習場で対抗方式の戦闘訓練を行わせる場合は、山地踏破として天山を含む筑紫山系を使用し、また日出生台演習場の場合は、田主丸〜日田〜日出生台を使用した。
  3.  80km行進への変更 
     
    昭和57年から、再び行進距離が約80kmに戻され、現在に至っている。見直された理由としては、前年に「武装障害走事故」が発生し殉職者を出したことにより、安全管理の観点から見直しが行われ、また校務全般に効率化・合理化が推進されたことによると思われる。
     昭和57年度の学校史には「長距離(約80km)の行進に引き続き、軽易な陣地攻撃に任ずる普通科中隊以下の戦闘行動を2夜3日の連続状況下で実施し、小部隊の指揮を演練するとともに、困難な状況下における幹部としての体力・気力及び指揮統率の重要性を深刻に認識させた。」とあり、B・I・OPC課程とも天山を含む筑紫山系の山地踏破に引き続き大野原演習場において攻撃行動を実施したが、約25年経った現在もほぼ同じ地域を使用し「総合訓練」を実施している。
  4.  100km行進の再開 
     
    平成20年、番匠学校長(第31代)の指針(候補生を感動させ、一生忘れないこと(時)を与える)を受け、従来の行進距離80kmから100kmへ距離を延長した。平成22年度からI課程(前段)は夏季の特性を考慮して2夜3日での100kmから3夜4日での100kmと日程を延長した。なお、BU課程及びI課程(後段)は従来どおりの2夜3日での100kmの日程で実施している。
     
    平成27年度、前田学校長(第35代)から「I課程(前段)の100km行進はWBGT指数が高く、熱中症等の患者が多数発生し、じ後の戦闘行動が不十分になる候補生が散見されたことから、行進の目的に立ち返り検討が必要である。」との指針を受け、第96期I課程(前段)は3夜4日での行進距離100kmを2夜3日の80kmに距離を短縮した
     その他のBU、I課程(後段)は前年同様100kmで実施する

平成27年度の取り組み

  現前川原駐屯地に所在した久留米第1陸軍予備士官学校では、演習出発前に雄健神社前に整列し、「武運長久」「安全祈願」を祈り、着剣し「国の鎮め」のラッパ吹奏をした後演習に出発したと伝えられている。
 上記に倣い、区隊長の発意により総合訓練前に祈願をする区隊があったが、96I(前段)からは、総合訓練出発前に全区隊で雄健神社記念碑に「武運長久」「安全祈願」を祈り、総合訓練に出発している。

剛健ピース

  1.  はじまり
      遡ると、昭和60年前後、旧型から新型背のうへの移行期に剛健ピースを携行するようになった。幹部候補生学校創設以来、行進訓練時に負荷をかけ、自分の限界に挑戦する事を目的として様々な創意を経て現在に至る。
  2.  歴 史
      過去の歴史を紐解くと陸軍士官学校が砂袋を背のうに入れていたことに由来する。当時も将校は丘の上に立って活模範を示すだけでなく、部下の分まで背負って耐えねばならない。そのためには日頃から人一倍、自ら鍛えなければいけないとされていた。
  3.  狙 い
      献身の精神を体現すること、自分に更なる負荷をかけて更に上のレベルに挑戦すること、このような気持ちを持っている候補生は、仮にその結果として自分が倒れたとしても、それは素晴らしい資質であり、気力が体力を超えることで己を知り、更なる飛躍を遂げることを期待し、これを行っているものである。
  4.  実施に当たっての基本的考え方
      各行進訓練時に剛健ピースを背のうに入れて携行することを基本とし、剛健ピースの携行数については自己の申告と区隊長の判断によって決定される。候補生自身が自ら限界に挑戦することを奨励するものの、あくまで候補生の意志によるものであり強制や統制すべきものではない。
  5.  変 換
      前述のとおり昭和60年頃から剛健ピースを携行するようになり、その要領、携行基準等についての詳細は不明であるが、昭和61年頃の第3候補生隊では、区隊長、本人の意志により剛健ピースを携行し、顕彰板への顕彰や卒業の記念として花壇等に剛健ピースを置いていた時代もあった。しかしながら、平成元年頃には携行した候補生が膝の痛みを多く訴えたことから、一時中止となった経緯があるものの、今でも区隊ごとではあるが剛健ピース携行の精神は受け継がれている。
     平成27年度、大庭学校長(第36代)の指導により「剛健ピースは鍛練の石(意志)」との意識を普及し候補生の奮起を図る目的で、27年度からは「剛健顕彰板」への剛健ピース携行数の顕彰を実施している。

元のページに戻る。