東日本大震災 災害派遣活動
ここでは福島駐屯地の各部隊が東日本大震災での災害派遣活動を紹介しております。
★東日本大震災災害派遣活動の記録★ | |
平成23年3月11日午後2時46分・・・宮城県沖を震源とする巨大地震が発生した。 「東北地方太平洋沖地震」 この観測史上最大のマグニチュード9.0を記録した地震と、それに伴い発生した巨大津波は、各地に未曾有の大災害をもたらした。 ここでは、郷土の誇りを胸に、宮城県や福島県の警戒区域内などでの災害派遣活動に奮闘した福島駐屯地各部隊の記録を紹介します。 |
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【宮城県における活動】 | |
福島駐屯地は、東日本大震災において発災当初から各部隊は指揮所を立ち上げるとともに第44普通科連隊の初動対処部隊を福島市内及び相双地区へ出動させ、情報収集及び人命救助などの活動を実施した。じ後第44普通科連隊は3月13日から宮城県石巻市へ、第11施設群は3月15日から東松島市へそれぞれ部隊を展開し、人命救助、行方不明者捜索を実施し、併せて炊き出し、給水、入浴支援及び物資の輸送などの民生支援を行ってきた。また、駐屯地業務隊は、発災後に託児所を開設し子供達を預かり、福島県警機動隊などに燃料給油などを行った。さらに、全国各地から災害派遣に来た各部隊のために燃料給油、給食、宿泊などの業務を24時間態勢で行った。 石巻に到着した第44普通科連隊は、素早く部隊を展開し冠水した住宅街からボートにより次々と被災者を救助した。行方不明者捜索に移行してからは、石巻市最大の被災地域でもある門脇町に展開し捜索活動を行った。併せて避難所への支援物資の輸送や合計2万食に及ぶ炊き出しや給水支援を継続的に行った。また、渡河ボートを利用した入浴支援では、土湯温泉観光協会より提供された土湯温泉の源泉を使用し、被災者の疲れを癒した。 第11施設群は、東松島市、多賀城市、七ヶ浜町などに展開、主に油圧ショベルなどの重機を使用し行方不明者捜索のための瓦礫除去作業や道路の啓開などの活動を実施した。また、第3普通科直接支援中隊や第2直接支援中隊などの後方支援部隊や即応予備自衛官が44連隊と11施設群の活動を陰から支えた。 |
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〜 第44普通科連隊の活動 〜 | |
福島駐屯地を次々と出動していく主力部隊 | 宮城県石巻市の被災現場に到着後、 部隊を素早く展開 |
冠水した住宅地から渡河ボート等で救助を実施 | 子供を抱き抱え避難所へ向かう隊員 |
夜通し全力で避難所への輸送を実施 | 住民の情報を基に捜索を開始 |
倒壊した家屋の窓から中に入る隊員 | 建物の中にまで車や瓦礫が散乱 |
声を出して家具や瓦礫の下を捜索 | マスクなどを装着し粉塵などから身を守る |
津波と火災に見舞われた門脇小学校 | 1階は津波、2階は火災で焼失した教室 |
24時間態勢で任務にあたる連隊指揮所 | 日々の作戦会議を綿密に行う連隊幕僚 |
現場指揮で陣頭指揮を行う各級指揮官たち | 住民からの聞き取り調査も捜索に役立つ |
ほとんどの場合、まずは手作業での捜索と瓦礫除去となる | |
民間企業の重機と協力して瓦礫除去作業 | 定期的に横隊になっての一斉捜索を実施 |
小さな瓦礫やゴミの下もくまなく探す | 思い出の品や写真も回収して家族のもとへ |
捜索した区域には「捜索済み」の貼り紙を貼る | 久納第6師団長へ活動状況の報告をする森脇連隊長 |
四十九日などの発災時刻には一斉に黙祷を行った | |
避難所などではご飯や味噌汁などの炊き出しを実施 | |
給水支援も終始に渡って行った | 様々な支援物資が拠点に集まる |
アメリカ軍と共に物資輸送や学校の清掃などの支援を実施した (トモダチ作戦) |
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土湯温泉から源泉を輸送した入浴支援 | 渡河ボートを利用した入浴支援 「希望の渡し湯」 |
マッサージのサービスも大好評だった | 入浴場では救援物資の一部の配布も |
女性自衛官と楽しく記念撮影する女子高生 | 鯉のぼりがなびく5月8日、石巻から撤収した |
〜 第11施設群の活動 〜 | |
渡河ボートを使い冠水地帯を捜索する隊員 | 人力と重機の共同で捜索を行う |
油圧のバケットをグラップル換装して活動 | 重機をフル稼働しての捜索活動 |
国道45号線の瓦礫の除去を行う | オペレーターには細かい操作が要求される |
民間からユースした重機を使用した活動 | 避難所で情報収集を行う隊員 |
招集された予備自衛官を配属して捜索活動を強化 | |
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【福島県における活動】 | |
約2ヶ月間の宮城県での活動を行ってきた第11施設群は4月20日から、第44普通科連隊は5月3日から、それぞれ東京電力福島第一原子力発電所30キロ圏内の浪江町、双葉町などの相双地区の行方不明者捜索を本格的に開始した。 宮城県と同様に行方不明者の捜索と民間重機と連携した捜索のための瓦礫除去作業を行ったが、タイベックスーツと呼ばれる防護服とゴーグルやマスクに身を包んでの捜索活動は、行動が著しく制限されるうえ、常に活動地域の放射線量のモニタリングを実施しながらの厳しい環境下での活動が続いた。 捜索活動に併せて、被害が比較的少ない家屋については一時帰宅などで住民が帰宅した際に、復興に向けた気概を持っていただけるように家屋内の清掃を実施、請戸小学校校舎内にとり残されたランドセル、捜索中に見つけたアルバムなどの思い出の品を回収しスクリーニングを行い、一時保管所の担当者に引き渡しなどの活動も実施した。 そして、第44普通科連隊は6月8日に、第11施設群は7月6日に警戒区域内での大規模な捜索活動を終了した。 |
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〜 第44普通科連隊の活動 〜 | |
5月3日、郷土の誇りを胸に、警戒区域内での捜索活動に伴う出陣式を実施する44連隊 | |
連隊旗をなびかせて駐屯地を出発する車列 | 警戒区域に進入する準備を整える |
第一原発の煙突が近くに見える浪江町に到着 | 横隊になり捜索を開始する44連隊の隊員 |
タイベックスーツ(防護服)を身にまといながらの活動は困難を極めた | |
発災の日のままの被災地と、放射線下の現場にも臆することなく活動する隊員 | |
放射線下の現場は今までとは違う世界 | 細心の注意を払い的確な現場指揮を行う 森脇連隊長 |
空間線量を測りながらの活動は制限を受ける | 小さな瓦礫の下もくまなく捜索する |
ゴム製の胴長ズボンを履いて冠水した地帯や河川などを捜索する | |
11施設群や民間業者の重機と連携して瓦礫撤去や運搬を実施 | |
沿岸部の捜索も巡回しながら実施 | 瓦礫や消波ブロックの隙間も欠かさずに |
消波ブロックの上を前進しながら捜索 | 捜索地域の指示や状況報告を逐次実施 |
捜索に併せ残存家屋の清掃を実施 | 瓦礫の山だった室内はキレイに |
請戸小学校教室に残置されたランドセルを回収 | スクリーニングを行い避難所に受け渡す |
佐藤福島県知事の現地視察で 状況説明をする森脇連隊長 |
ハートランド原町での指揮幕僚活動 |
定期的または作業終了時は スクリーニングを実施 |
使用したスーツ等はスクリーニング後破棄 |
約1ヶ月の活動が行われ、6月8日に大規模な捜索活動が終了した | |
9月12日には南相馬市において自治体や警察、消防との合同避難訓練が実施された | |
緊急時の重傷者の搬送や自力避難困難者の誘導訓練で連携を図った | |
〜 第11施設群の活動 〜 | |
44連隊と連携して捜索を実施 | 1cmの操作が求められる捜索現場 |
重機との素早い連携が作業の効率を上げる | 渡河ボートを活用して活動を行う |
グラップル(物を掴む)で瓦礫を手際よく除去 | 広い地域はバケットローダーで瓦礫を移動 |
請戸小学校グランドには大量の瓦礫が集められた | |
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【拠点の除染活動】 | |
第44普通科連隊は、平成23年12月7日から16日までの間、平成24年から本格的に始まる警戒区域内の除染に先立ち、その活動拠点となる浪江町役場、飯舘村役場の敷地内の除染活動を実施した。 除染活動は、側溝の汚泥の除去や落ち葉集めから始まり、芝生の表土の剥ぎ取りや石畳の隙間の土の除去などを実施した後、高圧洗浄機とブラシを使い地面や側溝などを洗い落した。この結果、線量は活動開始前と比べ大きく下回る数値を示し、国の除染事業の基盤の確立に寄与した。 そして、平成23年12月20日、福島県知事の災害派遣撤収要請を受け、福島駐屯地の9ヶ月以上に及ぶ災害派遣活動が終了した。 |
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〜浪江町役場での活動〜 | |
浪江町役場における除染活動 | 初めは枯れ草集めから開始 |
側溝の泥などをキレイに除去 | 定期的に各ポイントの空間線量を計測 |
排水溝などに潜り込んでの汚泥の除去 | 汚泥水が外部に流れない処置も万全に |
集められて草や泥はフルコンバックに摘める | 大量に集積されたフレコンバックの線量を測る |
高圧洗浄機で地面を洗い流す | 横一列になって隅々まで洗浄 |
タイルの隅々や側溝などもしっかりと洗い流す | 地面のブラッシングも横隊になり実施 |
役場職員や環境省、東電職員と連携して除染活動を実施 | |
〜飯舘村役場での活動〜 | |
飯舘村役場における除染活動 | 浪江町と同じく落ち葉集めから作業を開始 |
石畳の隙間の土も丁寧に除去 | 一列になって地道に進むローラー作業 |
芝生の表土を全て剥ぎ取った | 剥ぎ取った土は土嚢に入れる |
小分けした土や落ち葉を一つにまとめる | 敷地内の一時集積所に集められる汚染物 |
数えきれないほどのフレコンバックの山 | 中隊長に指示を出す森脇連隊長 |
こちらも浪江町と同様、高圧洗浄機を使用して地面をくまなく洗浄した | |
同じく関係各機関との調整を密に実施した | 飯舘村役場には多くの報道が取材に訪れた |
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【演奏支援と心温まる応援】 | |
第44普通科連隊に所属する「福島駐屯地音楽隊」(隊長・佐藤曹長)は、災害派遣活動の傍ら、避難所や施設、各種復興イベントに参加し、音楽演奏を実施した。その活動回数は40回を越え、福島県はもとより、宮城県の避難所、学校や施設などに赴き、音楽演奏を通じて被災者や市民に大きな勇気と元気を与えた。 また、災害派遣活動中、多くの被災者や地域住民、さらには全国の方々から心温まる応援の手紙や激励品などが福島駐屯地に送られてきた。さらには、毎日出動する隊員を思い、朝晩欠かさず大きな声で声援を送ってくれる方々には、活動で疲れた隊員の心を癒していただいた・・・ |
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あづま総合運動公園体育館の避難所での演奏 | パルセいいざかの避難所での演奏 |
梁川体育館の避難所での演奏 | 石巻市住吉中学校体育館の避難所での演奏 |
多賀城市山王での演奏 | 南三陸町の地区の復興祭での演奏 |
相馬市上真野小学校での演奏 | 子供たちからもらった感謝のプレゼント |
福島市内で行われた様々なイベントで元気の出る演奏を披露 | |
南相馬市原町の商店街の木村印舗の夫婦は、毎朝欠かさず出動する隊員を見送ってくれた | |
荒井地区などの子供たちが心を込めて折った千羽鶴をいただいた | |
飯野町の114号線沿いでは、毎日朝晩欠かさずに応援をし続ける子供たち | |
廣野あみさん・諒君の二人の健気な応援は、疲れた隊員の心を癒してくれた・・・ありがとう! |
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