「修史館」

カイヅカイブキの木で覆われた坂道を進むと、大正時代に建設された、
モダンで当時の建築技術の高さを伺わせる当駐屯地の歴史資料館である「修史館」が現れます。
向かって中央より右半分は、幹部集会場(旧将校集会場)、中央より左半分は明治天皇の娘婿である
北白川宮成久王殿下(野砲兵第4連隊第1大隊長)の執務室でした。
現在も残る木製のしっかりとした窓枠や、手製の窓ガラス等も見所の一つです。
入り口の上には、桜の紋章が飾られていますが、終戦までは陸軍の象徴である「星」が掲げられていました。
幹部集会場は、今も式典や会議等に使用されています。
当「修史館」では主に当時駐屯していた日本陸軍野砲兵第四連隊や大阪・和歌山に駐屯した部隊に関する
軍装品類、個人携行品、写真や火器等を展示しています。
その他、14世紀南朝に仕えた勤皇の士、楠木正成公ゆかりの建水分神社(大阪府南河内郡千早赤阪村)に
納められていた奉納刀等、貴重な資料や、現在の第37普通科連隊も使用するトレードマーク「菊水」に
関する楠木正成公の資料、書物等を展示しています。
その収蔵品数は大阪府下唯一で、ご来館された方々の多くを魅了しております。
各コーナー毎に明治・大正から昭和、戦後の予備隊・保安隊から自衛隊への変革が分かり易く紹介され、好評を博しています。

ここでは、その一部をご紹介致します。

修史館の外観はまるで大正時代へタイムスリップしたかの様な佇まいです。
修史館に向かって左側には、野砲兵第四連隊(信太山)の将校や下士官・兵達が
使用した軍装類や個人携行品、行李に下士官手箱、記章類や写真等豊富に展示されています。
皇室関係は主に絵画・写真等を展示しております。
歩兵第八連隊(法円坂)
陸軍幼年学校(大手前)
騎兵第四連隊(真田山)
この向かいには楠木正成公に関する文献や資料を展示されています。
その隣の部屋には歩兵第三十七連隊(法円坂)の資料や多くの勲章類が残されています。
また本項最右下の有名な写真に、マレー作戦において、シンガポール攻略後イギリス軍に対し、
降伏交渉を行う山下中将の隣で通訳する第25軍情報参謀・陸軍中佐の杉田一次(赤円内、拡大可)は、
歩兵三十七連隊出身者で、戦後陸上自衛隊の第3代陸上幕僚長在職時に歩兵三十七連隊の連隊番号「37」を
是非大阪にと尽力され、現在の信太山駐屯地に駐屯する第37普通科連隊へ引き継がれました。
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更にコーナーを進むと、明治37年に勃発した日露戦争を紹介。奉天会戦に於いて、一番乗りを果たした歩兵第三十七聯隊(聯隊長:川村大佐と聯隊旗)が、
大山満州軍総司令官と児玉参謀長を出迎える絵画(拡大可)が掲げられています。
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戦後29年後にフィリピン・ルバング島から帰還した元陸軍中尉の故・小野田寛郎氏も当駐屯地を訪れました。
また和歌山の歩兵第六十一連隊(海草郡湊村)に関する資料も展示されております。
この他、駐屯地近傍の観音寺町出身者で、海軍の特攻兵器「回天」に搭乗し、若い命を捧げたられた海軍中尉の遺書や軍衣等が大切に保管されております。
最後のコーナーは、戦後から現在までの自衛隊に関する資料を展示しております。
警察予備隊、保安隊を経て、自衛隊へと変革していく歴史を紹介。
旧制服や、連隊旗、各種災害派遣、海外派遣等の写真をパネル展示しています。
また、この部屋は、第1大隊長の北白川宮成久王殿下の執務室であった場所でもあります。
如何でしたでしょうか。
ご覧頂いた写真以外にも多数の展示物を揃えています。
当駐屯地は、これら先人達が築かれてきた歴史を引き続き大切に保管していきます。
地域の皆様と共に歩んできた信太山駐屯地と「修史館」は、これからも未来に向け躍進し、
今後も多くの皆様にその伝統をお伝えして参ります。
※尚、部隊見学等(団体のみ)は事前に申請して下さい。土日の部隊見学等は受け付けておりません。
  
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