信太山駐屯地の概要
信太山駐屯地は、日清・日露戦争において勇名を馳せた旧陸軍野砲兵第四聯隊が、
大正8年11月に大阪法円坂より移駐し終戦まで駐屯し、終戦後の昭和20年から
昭和32年までは米軍が駐留し、海兵隊の下士官養成学校として使われていました
が、昭和32年9月、陸上自衛隊信太山駐屯地として開設されました。
駐屯地の面積は約20万平方メートルで甲子園球場の約5倍の広さがあり、第1
7代履中天皇の皇子である市辺押歯皇子の墓といわれる鍋塚を中心に、各隊舎、厚
生センター、体育館が整然と配置される緑が多い駐屯地でもあります。
また旧軍時代からの建物も数多く残っており、特に旧将校集会場は野砲兵第四聯
隊が大阪法円坂より移駐時に、明治天皇の娘婿であられる当時の第一大隊長、北白
川宮成久王殿下の執務室として建設され、その後終戦まで将校集会場として使用さ
れた建物で、歴史的価値も高く、現在では修史館(資料館)兼幹部集会場として使
用されています。
鍋 塚 ( 王 塚 )
修史館(幹部集会場)
「さざれ石」
「さざれ石」は、国歌「君が代」に詠まれているとおり大小の石が永い歳月のう
ちに凝結して自然に大きな巌となったものであります。
それは、まさしく協調団結の精神を意味し、私たちの家庭も地域も国家もみんな
が心を合わせて進めば千代に八千代に栄えてゆくことを象徴するものにほかなりま
せん。この度、岐阜県揖斐群揖斐川町春日の日本さざれ石の会のご厚意により信太
山駐屯地創立五十周年を記念して、ご寄贈いただいたものです。
土台に使用している石材は、旧陸軍野砲兵第四聯隊が駐屯時正門に使用されてい
た門柱を当駐屯地創設に際し、建て替え保存していたものです。
古き伝統を、楠正成公ゆかりの楠木の下で、第十七代履中天皇第一皇子市辺押歯
皇子古墳(鍋塚)とともに継承していくために、この場所に設置しています。