樹木は語る |
平成24年4月25日、古河駐屯地後援会の内藤事務局長(隊友会古河支部長)に、古河駐屯地の歴史を講話してもらいました。 演題「古河駐屯地の歴史と風格を樹木は語る」 |
古河駐屯地は、開設当初昭和29年頃は、南・北別々の駐屯地が開設され、それぞれ、古河南駐屯地と古河北駐屯地と呼称されていました。南駐屯地には、愛知県豊川市から第1施設大隊が、北駐屯地には、千葉県松戸市から施設補給処が移駐してきたこと、また、昭和36年に南北駐屯地が統合されて、現在の古河駐屯地になりました。当初、南北に区分されて開設された理由については不明ですが、統合された理由は何となく理解できます。まず、駐屯地開設に至る経緯を概略、紹介します。
太平洋戦争、当時は大東亜戦争といわれていました。戦局が悪化の一途をたどっていた昭和19年5月、勝鹿村上辺見(一部は下辺見を含む。)に、三菱重工業株式会社茨城機器製作所が開設されました。この工場は、主に海軍(旧帝国海軍)の要請によって三菱重工業・川崎機器製作所、通称「川機」と呼ばれ、小型艦艇用高速ディーゼル・エンジンの主産力増強のために、京浜地区以外の候補地の中から昭和18年7月、当時の古河町(旧古河市)に隣接する勝鹿村が進出地に選ばれました。平成の大合併の前の総和町は昭和30年、勝鹿村(現在の駐屯地所在地)・香取村・桜井村・岡郷村の4カ村が合併して誕生した町で、戦後は、保安隊誘致や旧岡郷飛行場跡地等利用の丘里工業団地開設によって、町の財政は豊かになり、東の鹿島・神栖、西の総和といわれる程に、財政豊かになりましたが、当時はこの地域は、茨城西部の「辺境」地区でした。現在の官舎から日赤病院の跡地は、国鉄(今のJR)の宇都宮線の盛土用土取り場で、三菱重工が誘致される前から引き込み線は敷かれていました。古河町を中心に合併し、国家の進める計画的な国土開発に沿い、大工場を誘致して工業都市化を目指そうとする動きがあったと言われていたので、計画は順調に進みました。用地買収決定後、工場の建設は急ピッチで進められ、昭和19年4月には第1期工事がほぼ完成しました。工場の規模は、面積260,229坪、建物9,529坪、機械設備162台と言われていますが、非常に広大な敷地面積を有する大工場であったことは理解できます。(現在の駐屯地の約2倍の面積?)
第2期工事は、建設資材等の調達が思うようにいかず、また、生産品も戦局の推移に伴い、航空機部品類や一人乗り潜水艇用小型エンジン(特殊潜攻艇・あるいは別称人間魚雷)用へ転換していったと言われています。また、米軍機による本土空襲は日増しに激しくなり、その危険性を回避するために、栃木県真名子村(現在の栃木市真名子)に地下工場を建設して移転することになりましたが、着工前に敗戦となりました。日本有数の軍需企業として、膨張を続けてきた三菱重工業も敗戦により平和産業へ転換、茨城機器でも軍需品から民需品へ、製粉・精米等の各種農機具や、鍋・釜等の生産を手がけていましたが、昭和24年3月、事業所としての「茨機」はやむなく閉鎖することになり、人員整理して横浜造船所の古河工作部として再出発しましたが、これも工場の経営自体は赤字が続き、京浜地区から遠く、資材購入・製品輸送の費用・時間的ロスも大きく、また、戦時下に敵の空襲にも配慮して建設された非効率な工場配置などから、古河工場の将来的な勝算性は乏しいと判断されて、閉鎖の方針が決定されました。
古河工場の閉鎖が、もちろん従業員のみならず、地域住民に与える影響も大きく、古河市と勝鹿村が共同して工場の存続運動に乗り出し、市議会・村議会における三菱重工業への陳情決議等、また「古河工場存続対策委員会」の結成等、種々存続運動を展開されましたが、結果は実らず、昭和27年3月31日をもって閉鎖され、戦争末期に急造された工場は、約8年半という短い期間で、その役割を終えたことになりました。村の中心部に位置する約26万坪以上の大工場の閉鎖という事態は、勝鹿村にとっては死活問題であり、また、周辺自治体にとっても大きな関心事であったと思います。
工場閉鎖が決定された直後の昭和26年12月には、今までこの地域医療にも貢献してきた同工場の付属病院を勝鹿村が積極的に払い下げ、これを日本赤十字社に寄付して日本赤十字病院の分院を建設しようとする交渉が始められました。交渉の結果は、期待通り昭和28年11月「猿島赤十字病院」として開院されました。これは工場跡地のごく一部、残る大部分の跡地利用に関心が高まりつつある中、昭和27年1月、警察予備隊の定員増が決定、27年度中に、75,000人から11万人に増員する発表があり、偶然にも古河工場の閉鎖決定の直後に定められたことによって、タイミング良く予備隊の誘致運動が起こることになりました。
予備隊誘致、古河に予備隊が来る! 昭和28年1月に決定。約13万坪の駐屯地用地の売買契約が成立しました。
駐屯する部隊は、種々情報が乱れ飛び、期待を含む最もらしい擬情報が流れていましたが、時間の経過とともに「工兵的な部隊と補給処が併設される」という話があり、地域住民の間では、補給処というのは「全国の保安隊に補給する兵器等を生産する工場」と目されたことから、その下請け工場など期待する反応や、駐屯する隊員数が2,000人から3,000人規模になるといわれていたので、古河駅東地区や駐屯地周辺には、これをあてこむ商店や飲食店が次々と建てられたそうです。今でもその名残があります。しかしながら、保安隊の駐屯に対しては、その経済的効果を期待する好意的な反応だけではなかったようですが省略します。
さて、昭和29年2月20日、移駐が完了しました。南古河駐屯地と北古河駐屯地の2つの駐屯地が同時に発足しました。南・北に区分された理由は定かではないですが、南古河駐屯地には、第1施設大隊が愛知県豊川市から、北古河駐屯地には施設補給敞が千葉県松戸市から移駐し、両駐屯地合わせて総勢1,700人規模であったと聞いています。期待された規模等であったのかは、確認していません。三菱重工業古河工場跡地に発足した保安隊の駐屯地、わずか3カ月足らずで陸上自衛隊に衣替え、昭和36年8月17日、南北古河駐屯地が統合され、現在の古河駐屯地になりました。
このような経過から、大部分の、あるいは多くの地域住民の方々の駐屯地に対する考え方は、「俺達の駐屯地」と近親感を有しています。
駐屯地開設以来、植栽された樹木。旧三菱重工が開設される以前の樹木、総てが駐屯地の歴史を静かに見つめている、否見守っていると思います。
主として植栽された樹木、それぞれ、その目的と効果などについて樹木に代わって紹介したいと思います。
これは、南・北古河駐屯地の境界に植えられたヒノキです。少なくとも、昭和29年、両駐屯地が開設された当時に植えられたものであろうと思います。写真上に並んだ樹木の左側に深さ1メートル程度の溝が掘られ、それが境界らしいです。 |
「刀水」の前の桜、ではありません、反対側のモクセイの木。20本、概ね等間隔に、きれいに植えられています。写真撮影の方向指示が悪く、時期が桜の開花時期であったために、桜並木の方が強調された結果になりました。反省しています。 |
整然と植えられた「カイズカイブキ」 |
丸坊主になった銀杏(イチョウ)の木、そろそろ新芽が出てくるでしょう。発育が良いもので、1号営庭の南及び東側を飾るものですが入手先は不明です。 |
丸く刈り込まれた「ツツジ」、「サツキ」ではありません。ここに鎮座する控えめな記念碑、昭和53年3月頃の建立です。 愛称をもって「ポテンシャル博士」と陰口をたたく人もありましたが、工学博士の称号を有する陸将補、素晴らしい指導者だったことは言うまでもありません。話を戻します。それから何年か過ぎました。丁度、作業服の階級章の星などが、白から黒に変わった時期に「駐屯地内や演習場内に記念碑等を建てるべからず、現存するものは撤去せよ」との陸幕から厳しい「お達し」がありました。 |
駐屯地開設50周年記念樹として、古河駐屯地後援会から寄贈された「桜」、駐屯地厚生センター前の広場に植えさせていただきました。永く隊員の皆様に愛される樹木になるよう期待し祈念しています。 |
しだれ桜、昭和41年、駐屯地ラグビー場竣工記念として、ラグビー場と隣接する車両登坂試験所周辺に植えられていたものです。 |
昭和53年、ケヤキの苗木280本、航空自衛隊百里基地から贈られてきたものです。 |
昭和40年、古河駐屯地協力会が寄贈した300本の梅の木の一部です。 |
駐屯地西側にある池「三菱重工、川崎機器」が戦時中、小型エンジンのテスト用として使っていたと言われています。 |
シュロの木の仮植です。今まで説明してきた樹木は全部、駐屯地が開設されてから植えられたものです。また、ほとんど部外者や協力者等から無償で提供されたものといっても過言ではありません。また、提供してくださった方にも、自衛隊古河駐屯地に対する「思い」があるはずです。 この「シュロ」の木は、市内東牛谷の農家から提供を受けたもので、自宅前の公道が拡幅されるため、樹木の特徴を活かすために、広い庭のある場所に提供したいと考え、私が総和町議時代に後援いただいた方からの提供で、とりあえず仮植されているものです。 |
駐屯地の歴史、開設後の経過を踏まえて、因縁めいたことがあります。老婆心ながら、聞き流してもらえれば幸甚です。 JR古河駅から駐屯地西側、旧日赤跡地と自衛隊官舎間に鉄道の引込線が、昭和49年まで存在しました。 旧国鉄が、利根川に架かる鉄橋を洪水から守るためにかさ上げしました。その盛土用材の土取り場が鹿養台、旧日赤跡地を含む駐屯地の西側一帯だったそうです。 土砂運搬用を経て、三菱重工業・川崎機器製作所から京浜地区まで製品輸送に使われ、昭和30年施設補給処が再利用、49年に撤去されたものです。それ以降、旧総和町大堤の子供たちの通学路として、また、宅地開発等に伴い整備されてきましたが、接点開発(旧古河市と総和町)事業として、土地区画整理事業区域内にあり、大幅に拡幅整備されつつあります。また、国道125号線が駐屯地及び向堀側沿いに埼玉県栗橋まで建設計画されています。 これら道路網の再編にあたって、引込線跡地及び駐屯地西側外柵沿いが、また、旧日赤跡地の利用方法(古河市の計画で検討中)によって、種々な問題が惹起する可能性があります。 ナイキ・アジャクス搬送等鉄道引込線には因縁深いものがあることを忘れてはなりません。 また、周辺道路の拡幅整備、特に、駐屯地東側の道路については、少なくとも歩道がなく、旧日赤跡地の利用及び交通上の危険性を考慮すれば、問題点として大きくクローズ・アップされます。詳細は省略しますが、今後とも関係機関等との連携を密にして対応することに期待します。 |
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このシバザクラ「駐屯地正門、あるいは外柵沿いに植えたい」と、当時の駐屯地司令からの要望で提供者を捜した結果、西牛谷の農家の方から快く提供してもらったものです。 ピンクの花がきれいですね! |
駐屯地消防班は、以前は1号館と2号館の間にありましたが、現在は、ご承知の通り警衛所に連接して設置されています。 |