明治二十七・八年の役 陣歿者追悼の碑
および忠勇八士の碑

 この両碑は、旧陸軍第1師団歩兵第1連隊から受け継いだ石碑です。明治二十七・八年の日清戦争で殉職した126名、歩兵第1連隊による富士演習の日射病で殉職した8名をそれぞれ追悼しています。

○ 歩兵第1連隊のはじまり
 明治6年、鎮台管区制の下、我が国ははじめて軍旗を制定しました。これを受け、歩兵第1連隊は、明治天皇から軍旗を親受し、全国歩兵部隊先魁の頭号連隊となりました。軍功のある士官が連隊長を務めており、一例を紹介すれば、乃木希典大将は第2代連隊長として5年間勤務されています。

○ 明治二十七・八年の役 陣歿者追悼の碑について。
 乃木大将は、明治二十七・八年の戦役、すなわち日清戦争において、第2軍歩兵第1旅団長(少将)として歩兵第1連隊を統率し、旅順要塞を攻略してから営口にまで北進して、両国の和議に貢献しました。明治29年1月、歩兵第1連隊は、殉職した126名のため、当地駐屯していた桧町兵営にこの石碑を建立しました。また、乃木大将は歩兵第1連隊と深いご縁があり、第3軍司令官に親補されて日露戦争に参加、明治37年11月27日、203高地の第3回総攻撃に歩兵第1連隊を一時山頂に到達させています。また、長男勝典中尉は、同連隊の小隊長として南山攻撃で戦死しています。

○ 忠勇八士の碑について。
 昭和6年の張作霖爆死からはじまる満州事変、昭和7年の満州国建国、更に昭和8年の我が国国際連盟からの離脱など、国際的な緊張が深まる中、昭和8年7月2日、歩兵第1連隊は、日支戦争への耐熱、渇水訓練として、歩兵第49連隊と裾野で対抗演習を行いました。その際、歩兵第1連隊は、300名を越える日射病罹病者を出し、8名を死亡させてしまいました。そのうち7名が発狂による銃剣自殺であった様子です。本事案は多くの教訓を残し、旧陸軍は、軍用水筒を大型ものに、戦闘服を改善するなどの具体的な対策を行いました。昭和8年7月、歩兵第一連隊は殉職した8名を忠勇八士として記憶にとどめるため、石碑を桧町営舎に建立しました。

○ 歩兵第1連隊のその後
 昭和11年、歩兵第1連隊は、満州に移駐し、北支作戦やノモハンに参加しました。昭和19年、絶対国防圏の崩壊を受け、捷号作戦の重要な正面であり、また、米軍反撃の上陸地点となった比国レイテの防衛に参加していたところ、終戦を迎え、74年の歴史に幕を閉じました。

○ 石碑の移駐と現在
 終戦後、これら二つの追悼碑は、神奈川県溝の口にある歩1留守担当部隊跡に放置されていました。昭和40年、これを見かねた歩兵第1連隊を母体とする歩1会が第1普通科連隊に要請し、練馬へ両石碑を移設する運びとなりました。平成30年、連隊は歩兵第1連隊と同じく68年を迎えました。歩兵1連隊の殉国勇士の安住の地練馬にて、先人に恥じないように日々練磨していきたいと思います。