職場で勤務している、制服や飛行服姿の時は「かっこいいね」と言ってくれています。 休みの日は・・・?
家族は、自衛隊の行事等にはよく参加しているということで。右の写真は2年前になりますが、陸海空自衛隊で行っているサマーフェスタ会場の、沖縄地方協力本部ブースで行われた制服試着コーナーに、喜村1尉の子供さんが来ていた時の写真です。(右写真) 将来の自衛官は、この中から出るのでしょうか??
勿論、「賛成」です。
早い時期に大変な思いをして、それを乗りきってくれれば、その後何があっても頑張れると思うので、息子にも色々な経験をしてほしいと思います。
約2年の教育期間があり、学科と操縦の教育を受けるんですが、操縦教育ではとにかく辛い思い出というか、教官のプレッシャーがものすごかったんで、今でも何となく、北宇都宮へは足が向かないというか・・・。 操縦教育はとにかくキツかったです。操縦中に教官に頭をたたかれ、ヘルメットがクルッとまわって前が見えなくなったり、今となっては笑い話みたいですが、操縦を終えたままの飛行服、ヘルメットで駆け足をさせられたり。厳しい指導をたくさんいただきました。
少工の同期達にしてみれば、「喜村がパイロットになれるのなら、自分もなれるはず」と、勇気を与えたのだとか??
緊急患者空輸を担任実施している第15飛行隊においてUH-60操縦士として、勤務しています。
第15飛行隊は沖縄県全域及び奄美大島以南の鹿児島県を担任区域とし、常時緊急患者空輸の為の即応体制を維持しており、私も4日に1回くらいで待機要員として勤務しています。平成14年、飛行隊に勤務して以来、180回を越える緊急患者空輸へ(そのうち出身地奄美大島へは約20回)出動しています。自衛隊を志すきっかけとなった、「地元へ貢献したい」という思いが少しだけ叶ったような気がします。
H5年3月、高等工科学校生徒としての一般教育や自衛官の職種である航空機の通信修理課程等の教育を終え、第101飛行隊(那覇):現在の第15飛行隊へ配属となり約2年間、航空機の通信機材の整備の仕事をしていました。
陸上自衛隊には、陸曹になって2年目から部内航空操縦士の試験があり、合格すると操縦士への道が開かれる制度があり、自分が所属していた101飛行隊が離島の緊急患者空輸(R/C)を実施していたこともあり、地元奄美へも出動しているR/Cで地元への貢献が出来ればという思いから、操縦士(パイロット)を目指すことに。
先輩に借りた過去問題や、本屋で公務員3種の試験問題を購入し、約半年猛勉強・・とまでは言いませんが、コツコツ勉強した結果「見事合格!」 1回目の試験で合格するなんて、そうそういないんですよ
栃木県宇都宮にある、陸曹航空操縦課程へ入校。約2年間の辛くて厳しい教育を無事修了し、今の操縦士となることが出来ました。





少工(少年工科学校のことを事後「少工」という)での思い出というか、南国出身者ならではの、やはり向こうで初めて雪を見た時は、沖縄出身の同期とかき氷にして食べたことを覚えています。
他にも、休日にはディズニーランドや横浜、色々なところに遊びに行きました。給料をもらっているので使いたい放題・・と言いたいところですが、あの頃は教官等の親心?の指導のもと3年でやっと2万円という小遣い程度のお金しか自由に使うことができず、残りは親への仕送りや、貯金に・・・。
3年間で4〜500万円貯めた同期もいましたよ。寮生活で食事や生活費がかからないって他じゃありえないですよ。そのお陰で、奄美に帰省した正月は15歳で親戚の子や弟にお年玉をあげることもでき、何となく偉くなったっていうか大人になったような気がして嬉しかったです。
もちろん辛いことも在りましたよ。最初の頃は体力的に大変でしたし、毎朝上半身裸で点呼を行うのが、冬は辛かったですね〜。雪も初めてみたというのに、裸で乾布摩擦ですよ。
他に思い出といえば、クラブ活動ですね。普通の高校生の部活と同じなんですが少工では、体育・文化の2つのクラブを選択する事になっていて、私は詩吟とレスリングに入っていました。自分でもなぜ??のこの2つ。
鹿児島出身のレスリングの監督に、鹿児島出身なら・・・と半強制的に入れられたレスリング部と、部員がなかなか集まらないと聞いたので、じゃあ詩吟クラブに入るかって感じで決めたんですけどね。
その割に、レスリングは3年間真剣にやりました。練習は本当にきつくて、真夏に窓を閉め切っての練習では一度の練習で3〜4kg体重が減っていることもありました。そのかいあって、3年の時には県大会で優勝。国体でも5位になることができ、辛い練習も今となってはいい思い出です。
少年工科学校は、神奈川県立修悠館高校として高体連に加盟し、全日制高校又は、定時制高校の大会に出場して好成績を収めています

小学生の頃は、とにかく外で遊んでいました。奄美ならでは?の海での鬼ごっこや、手作り竿での魚釣り、缶けりに陣取りゲーム。特にクラブに所属していたわけでは在りませんが、夏は水泳・秋は陸上(短距離、ハードル、幅跳び、高跳び)・冬から春はソフトボールに相撲と、とにかく色々やらされていました。地区の大会などにも良く出場し、特に相撲では数回優勝したりもしたんですよ。 けれど、中学になってからは、部活にも入らず・・・。その頃大流行したファミコンばっかりやっていました。

元自衛官の妻と長女(中1)、長男(小6)、次女(小4)の5人家族です。
自衛隊のことをどのくらい理解しているのかは解りませんが、長女と長男は「自衛隊に入る!」と言ってくれています。親としてはやっぱり嬉しいですね。
私自身は、男ばっかり4人兄弟の3番目で、8つ離れた一番上の兄も、1つ上の兄も・・・そして弟も陸上自衛官でした。
一番上の兄は任期満了で退職しましたが、他の兄弟は現役自衛官。4兄弟みんな父の策略に見事かかったんでしょうね。
小さい頃、父に連れられて奄美のあやまる岬(奄美空港北)に離着陸するオレンジ色のヘリを見に行っていて、「かっこいいな〜」と思ったことを覚えています。それがきっかけなのかな?と自分では思っていたのですが・・・
実際は、父も若い頃自衛官として働いていたものの、他にいい仕事がある。といって退職、しかし色々な職を転々とし、やはり一番良かったのが自衛隊だったと気付いたということもあり、父の策略だったのかもしれません。
生徒受験を決めたのは中学2年の頃で、「生徒の試験、かなり難しいからしっかり勉強しないと」と言われ、遊んでばかりいた私は焦りから、真剣に勉強に取り組むように・・・。3年生になってからは成績はトップクラス(少ない学校なんですが)。奄美で『高等工科学校の受験者が約30名いるなか、3〜4名の合格者の中に見事入る事ができました。
中学を卒業して、自衛隊へ入隊(その頃は学生ではなく自衛官でした)、当時は、親元を離れて初めての事ばかりで、毎日精一杯。男ばっかりの自衛隊で、地元の同級生達は高校生活をエンジョイしてるんだろうなと、うらやましかったりもしましたが今となっては、『3年間頑張った甲斐があった。』とこの道を選んだこと間違いじゃ無かったと実感しています。
