本部長の群馬紀行
第41回 白鳥が飛来する町の自然と周辺の史跡

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 さて、群馬紀行第41回は、前橋市内から約45km、1時間15分の白鳥の飛来地「邑楽町」の自然と周辺の史跡をご紹介します。

 

 邑楽(おうら)郡邑楽町は、東毛地域の中央部、上毛かるた「鶴舞う形の群馬県」の鶴の首の部分に位置し、太田市、館林市、大泉町、千代田町、栃木県足利市に隣接しています。写真は、町の中心部にある中央公園ですが、水辺の環境改善でここ数年白鳥が飛来するようになりました。後方は邑楽町役場と町のシンボルタワー「未来MiRAi」で、条件の良い日には、地上約40mの展望室から遠くスカイツリーが望めます。

 

 

 多々良(たたら)沼は、邑楽町と館林市にまたがる面積83ha、周囲約7kmの広大な沼で、東毛の池沼群最大の漁場で、ヘラブナの釣り場としても有名です。また、水生植物の宝庫となっているため野鳥にも格好の生息場所で、年間を通じて45種ほどが確認されています。水深は2m内外で、冬期には減水して面積は3分の2程度に縮小します。昭和53年にこの沼に初めて白鳥が飛来して以来、その数は年々増加傾向にあり、現在は200羽を越える冬の使者が訪れています。白鳥は例年11月上旬にシベリアから飛来し、3月下旬に北上しますが、最も多くなるのは1月下旬〜2月上旬だそうです。

 

 

 多々良沼の白鳥は、平成4年のシーズン途中から、生息地としての越冬条件がより好ましいためか、突然、多々良沼の西側にある通称ガバ沼と呼ばれる小さな沼に移動し、それ以後は、毎年ガバ沼に多く飛来するようになりました。白鳥を愛する会主催の「白鳥まつり」も、毎年1月の最終日曜日にこの沼で開催され、多くの人が訪れるそうです。写真は、白鳥まつりの一週間前のカバ沼ですが、白鳥の数は前週に比べて飛躍的に増えていました。

 

 

 かつて新田荘や足利荘に隣接していた邑楽町には、鎌倉時代から南北朝時代にかけての史跡が多く残っています。邑楽町中野の神光寺は、新田一族の大島時継の子・景継が1265年に築いた中野館跡で、景継の子・景春(藤内左衛門)は新田義貞に従軍し、1338年に燈明寺畷(福井県福井市、群馬紀行第17回参照)で義貞に殉じます。戦国時代には、北条方の小泉城(大泉町)主・富岡氏配下の宝田和泉守が中野城に改修しますが、1590年の北条氏滅亡とともに廃城となりました。写真は、境内の樹齢約770年の「神光寺の大カヤ」で、中野館(城)築城当時の名残となっています。

 

 

 邑楽町篠塚の長柄神社は、邑楽郡一の格式を誇る一の宮で、約千四百年前に大和から来た長柄氏が草創し、新田四天王の一人・篠塚伊賀守(重広)が新田義貞の鎌倉攻めに参陣する際に武運を祈願したと伝えられています。重広は、源平合戦の鵯越(ひよどりごえ)の戦いで馬を担いで坂を駆け降りたことで有名な鎌倉武士・畠山重忠の6代目の子孫として1309年頃この地に生まれて篠塚城主となり、8尺(240cm)の金棒を武器とする怪力が伝えられています。写真は、1779年に彫刻の粋を凝らして造営された壮麗な社殿と樹齢4百年のエドヒガン(江戸彼岸)桜で、春の彼岸の頃、葉の出る前にソメイヨシノよりも色の濃い小さな花をたくさん咲かせるそうです。

 

 

 重広は、義貞の戦死後も南朝方として各地を転戦し、後醍醐天皇から伊賀守を賜りますが、1342年、新田一族の大館氏明(おおだちうじあき)に従軍した四国今治の世田城の籠城戦に敗れると、今治浦から船で魚島(うおしま、愛媛県上島町)に逃れて3年過ごし、その後海路で波崎(茨城県神栖市)に帰還し、記念として船の碇(いかり)石を陸に安置したそうです。邑楽町篠塚の大信寺にある重広の墓所には、その錠石と同型のものが置かれていますが、長さ2.5m、重さ400kgの碇石で、これを一人で担いだと言われています。

 

 

 多々良沼に突出した半島部に位置する鶉古城(うずらこじょう)は、新田義貞の鎌倉攻めで北条氏が滅亡する折、執権北条高時の弟で僧・慧性(えしょう)が、夢枕に立った北条氏の守護神・江ノ島弁財天の「上毛の郷に清浄の霊地があるので其処に逃れて北条家の再興を図るべし。」とのお告げに従い築いた城で、邑楽町鶉に恩林寺を建てて菩提寺とし、半島先端に江ノ島弁財天を勧請して「浮島弁財天」を建立しました。その後、多々良氏の支配を経て戦国時代には北条方の城となり、1590年の北条氏滅亡とともに廃城となりました。写真左が浮島弁財天で、城跡を含む沼周辺は多々良沼公園として整備されています。なお、鶉の地名の由来は、足利尊氏が当地で雉狩りを行った際に、鶉の雛鳥を捕獲して金の鳥籠に入れて持ち帰ったことからきているそうです。

 

 

 邑楽町中野の「永明寺のキンモクセイ」は、永明寺の開祖で鎌倉時代の禅僧・夢窓国師(むそうこくし)が1331年に植えたと伝えられる樹齢700年の老樹で、昭和12年に国の天然記念物に指定されました。当時は樹高16m、枝張りが18mの大木でしたが、昭和41年の台風26号により地上5mの所で折れて倒壊し、根が地上に盛り上がりました。しかしながら、関係者の懸命の努力で数年後には新芽が出て、現在は樹高7mにまで復活し、秋には花を付けるそうです。

 

 (参考図書等:邑楽町HP、「群馬県の歴史散歩」(山川出版社)、観光パンフレット、現地の説明板等)