本部長の群馬紀行
第15回 八束脛洞窟遺跡と矢瀬遺跡

 皆様、こんにちは。
 関東地方も梅雨が明け、いよいよ夏本番ですね。

 県内各地で地本の自衛官等募集事務担当者(広報官)が募集活動を行っていますが、受験資格があり、自衛官という職業に関心のある方は、是非一度耳を傾け、ご検討頂けますようお願い申し上げます。

 

 さて、群馬紀行第15回は、前橋市内から約45km、約1時間20分のみなかみ町にある八束脛(やつはぎ)洞窟遺跡と矢瀬(やぜ)遺跡をご紹介します。

 

 

 町指定の史跡である八束脛洞窟遺跡は、JR上越線後閑駅の北約3kmの石尊山(せきそんさん)という里山の中腹にあります。石尊山という名の山は県内にもいくつかありますが、こちらは月夜野石尊山とも呼ばれています。麓の穴切(あなぎれ)集落には、遺跡への登り口を示す案内板が立っており、石尊山と大きな岩(洞窟遺跡)が見えます。

 

 

 道路脇に車を止め、案内版のすぐ先にある鳥居をくぐり、藪道を進むとやがて登山道らしくなり、しばらく登ると長い石段の下に出ます。約100段の石段を登り切ると大岩の真下に出ます。ここまで約15分です。岩肌には、下からA洞、B洞、C洞、D洞という洞窟が縦に4つ並び、B洞には八束脛三社宮(神社)と遺跡の案内板が建っています。B洞とD洞を主体に、乳児から老人までの34体の焼けた人骨、歯や骨を使った装飾品や土器などが出土し、約2000年前の弥生時代中期の共同墓地であると考えられています。

 

 

 八束脛という名の由来は、昔この洞窟に脛の長さが八束(握りこぶし8つ分)もある巨人が住んでいて近隣の農作物を荒らしたので村人が洞窟への登降用の藤蔓(ふじづる)を切り払ったため洞窟内で餓死し、その祟りを恐れた村人が宮を建てたというものです。このほか、洞窟に住みついた奥州の落武者を村人の訴えで沼田領主の沼田氏が成敗し、後の領主の真田氏が祟りを鎮めるため三社を建てたという話や、群馬紀行第11回でご紹介した八束山の「羊太夫の伝説」に登場する従者「小脛」(八束小脛)が追手から逃れて洞窟に住みついたという話まであるようです。

 

 

 洞窟の左側の山道を登ると、洞窟岩の岩頭に立つことができます。ここからの眺めは抜群で、登り口のある穴切集落、みなかみ町、子持山などが一望できます。標高751mの石尊山の頂上は、岩頭から15分程度登った所にあり、石宮が建っています。岩頭のような眺望はありませんが、樹木の間から赤城山などが見えました。なお、岩頭から頂上までの道は不明瞭なので、特に下りは道を見失わないように注意する必要があります。

 

 

 一方、国指定の史跡である矢瀬遺跡は、新幹線の上毛高原駅の北東約700m、後閑駅の北西約3kmほどの利根川河岸段丘の一番低い場所に位置し、平成4年に発見され、道の駅「月夜野矢瀬親水公園」内に復元されました。矢瀬遺跡は、約3500〜2300年前の縄文時代の後晩期の集落跡で、人工の水場や祭祀場を中心に住居や墓地が広がる当時の集落の様子が復元されています。

 

 

 公園は広く、親水路や芝生広場、子供の遊び場などがあります。「矢の広場」には弓を引く源義家(八幡太郎)の像がありますが、奥州征伐の残党狩りでこの地を訪れた義家が、大軍で利根川を渡るための目印として対岸の瀬に矢を射て、それが「矢瀬」の由来となったそうです。このほか、「矢瀬湧水(三千年の水)」という縄文時代から約三千年間絶え間なく湧き出ているという人工の水場があり、実際に水を浴びて、当時の息吹を感じることができます。

 

 

 今回ご紹介した矢瀬遺跡や八束脛洞窟遺跡の多数の出土品は、公園と上毛高原駅の中間付近にある「月夜野郷土歴史資料館」(日曜日のみ開館、200円)で見ることができます。また、資料館の近くには、縄文時代中期末の敷石住居跡の「梨の木平敷石住居跡」や縄文時代後期の共同墓地跡の「深沢遺跡配石遺構」(掲載写真)もあり、こちらはいつでも見学可能となっています。

 

 (参考図書等:「ぐんまの里山てくてく歩き」(上毛新聞社)、「野山を歩く100コース」(上毛新聞社)、「ぐんまの駅から登る山歩き」(あさを社)、「群馬県の歴史散歩」(山川出版社)、月夜野郷土歴史資料館、観光パンフレット、現地の説明板等)