ぐんま観光特使の新・群馬紀行
第17回 四阿山

 皆様、こんにちは。
本年も残り1月余りとなりましたが、東京では史上初めて、11月中の積雪が観測されました。

 

 さて、新・群馬紀行第17回は、群馬県吾妻郡嬬恋村、長野県上田市、同須坂市にまたがる日本百名山で、大河ドラマで活躍する真田氏とも縁の深い「四阿山」(あずまやさん)をご紹介します。

 

 標高2354mの四阿山は、志賀高原から続く火山帯に属し、約200万年前に活動が始まった成層火山で、最後の噴火は30万年前といわれています。四阿山という山名は、どこから見ても山の形が四阿(あずまや。四方吹き下ろし屋根の小屋)の屋根の形に似ていることに由来しているそうですが、写真は、浅間山麓の鬼押出し園(群馬紀行第23回参照)から見たところです。

 


 四阿山は、古くから山頂に祀られた白山権現(四阿山権現)を信仰する修験道の霊山として知られ、登山口の一つである群馬・長野県境の「鳥居峠」(1362m。群馬紀行第63回参照)には山頂へ通ずる参道の入口として鳥居が建てられ、修験者である山伏はここから参道を登りました。東京郊外から鳥居峠まで上信越自動車道・上田菅平IC経由で約190q、2時間40分ほどです。

 


 真田氏発祥の地(長野県上田市)は、上田菅平ICから鳥居峠に向かう途上にあり、白山権現を祀る同地の「山家(やまが)神社」の氏子であった真田氏は、奥宮のある四阿山を崇敬していました。火坂雅志著「真田三代」は、鳥居峠から参道を登る真田幸隆(昌幸の父)の描写から始まりますが、現在は峠から3qほど林道が通じています。写真は、標高1580mの林道終点で、ここから西寄りの登山道と東寄りの登山道に分かれます。

 

 西寄りの登山道を30分ほど登ると、幅3m、高さ15m、長さ200mの「的岩」(まといわ)が現れます。火山活動が盛んだった頃、地下の岩盤の割れ目に貫入したマグマが板状になって固まり、その後の浸食作用によって硬いところだけが浮き彫りになって残ったもので、別名「屏風岩」とも呼ばれ、国の天然記念物に指定されています。かつて浅間山麓で巻狩りをした源頼朝が、家来にこの岩を的にして弓を引かせたという伝説があります。

 

 

 的岩から50分ほど登った標高2040mのピークには休憩所があり、東寄りの登山道と合流します。林道終点から山頂までの概ね中間地点にあたり、山頂まで残り1時間10分ほどです。写真は、関東地方で最高地点(2179m)にあると言われる通年枯れることのない湧水で、かつては「熊野清水」とも言われ、山中で修行に励む修験者を支えた命の水でしたが、現在は「嬬恋清水」と呼ばれています。

 


 南北に細長い山頂には二つの祠があり、いずれも山家神社の奥宮となっています。山家神社に残っている奥宮の古扉には、1562年に真田幸隆・信綱(昌幸の兄)父子が奥宮の社殿を修復したことが記されており、その翌年、武田信玄の命を受けた幸隆は鳥居峠を越えて吾妻郡に侵攻(同第38回参照)しました。写真は、山頂南側に位置する祠で、群馬県側(東)を向いていることから「上州の宮」と呼ばれており、右隅には長野県側(南)を向いた「信州の宮」も見えています。


 山頂の岩場に登ると360度の大展望が開けますが、特に西の雲海の彼方に広がる「北アルプス」の3000m峰の連なりは圧巻です。右から日本百名山の白馬岳(2932m)、鹿島槍ヶ岳(2890m)、剱岳(2999m)、水晶岳(2978m)、槍ヶ岳(3180m)、穂高岳(3190m)などが確認できます。右手前の根古岳(ねこだけ。2207m)の裾野の先には「菅平高原」が広がっています。

 

 写真は北西方向で、根古岳から右に広がる巨大なクレーターのような窪みは、かつての「四阿火山」の直径約4qもある大カルデラの西半分で、四阿山や根古岳はその外輪山となっています。正面遠景は、長野県と新潟県にまたがる妙高戸隠(みょうこうとがくし)連山で、日本百名山の妙高山(2454m)、火打山(2462m)、高妻山(2353m)などが確認できます。

 

 


 写真は北東方向で、正面中ほどの浦倉山(2091m)から左に広がる窪みは、四阿火山の大カルデラの東半分です。浦倉山の後方は、岩菅山(2337m)や横手山(2307m)など「志賀高原」に属する山々で、横手山の山腹には日本国道最高地点(2172m、同第25回)を通る国道292号が横切っています。その右は、日本百名山の草津白根山で、白根山(2160m)や本白根山(2171m)のほか、標高1800mの高所にある「万座温泉」が確認できます。

 


 写真は、山頂からやや下った地点から南東方向を俯瞰したところで、右は日本百名山の浅間山(2568m、同第23回参照)です。四阿山の広大な山麓にはバラギ湖(左)と田代湖(右)の二つの人造湖が見え、その先には浅間山の山麓が広がり、両者の鞍部には嬬恋村を通る信州街道沿いの街並みが確認できます。中央の鋭峰は浅間隠山(1757m、新・群馬紀行第3回参照)で左後方には榛名山が微かに確認できます。

 


 復路は、2040mのピークまで戻り、そこから東寄りの登山道を下りました。こちらの登山道が、かつて修験者が行き来した参道で「上州古道」とも呼ばれ、山頂まで1町(約110m)毎に石の祠が建てられていました。写真のとおり、登山道には現在も多くの祠が残されており、修験道の霊山としてのかつての繁栄が偲ばれます。

 

 

 写真は、標高1800m地点にある「花童子(げどうじ)の宮跡」です。里宮と奥宮の間に置かれた中社跡で、718年に山頂に白山大権現を勧請した修験者の名前(花童子)に因んで名付けられたと伝わり、加持祈祷などを行う中心的な場所でした。「真田三代」では、真田幸隆がここで山伏から情報収集する場面が描かれていますが、山伏は古来より関所の通行が自由で諸国の情勢に明るいため、真田氏は情報源として活用していました。

 



  嬬恋村では、かつて日本武尊が東征の際に鳥居峠で亡き妻・乙橘姫を偲んで「吾嬬者耶」(あずまはや。「ああ我が妻よ」の意)と嘆いてそれが吾妻郡や嬬恋村の由来になったことから、この地を「愛妻家の聖地」と位置づけ、日本一の生産量を誇るキャベツ畑の中で「愛の言葉」などを叫ぶイベントを開催しています。写真は、そのイベントの開催地である「愛妻の丘」から見た四阿山です。

 

 

 (参考図書等:「真田三代」(火坂雅志)、「群馬の山歩き130選」(上毛新聞社)、「ぐんま百名山」(上毛新聞社)、観光パンフレット、現地の説明板等)