ぐんま観光特使の新・群馬紀行
第15回 尾瀬ヶ原とその周辺の景観(その1)

 皆様、こんにちは。
台風が立て続けに東日本に上陸しました。

 

 さて、新・群馬紀行第15回は、群馬、福島、新潟、栃木の4県にまたがる広大な「尾瀬国立公園」のうち、群馬紀行第66回でご紹介した「尾瀬沼」とともに尾瀬の代表的なエリアである「尾瀬ヶ原」とその周辺の景観(その1)をご紹介します。

 

 

 尾瀬ヶ原への入山口は、片品村戸倉の「鳩待(はとまち)峠」が一般的ですが、行楽シーズン中はマイカー規制が行われるため、戸倉の街中の駐車場に駐車し、鳩待峠までピストン輸送するバスや乗合タクシーに乗り換えます。東京郊外から駐車場まで、関越自動車道・沼田IC経由で約160q、約2時間30分で、そこから峠までは30分ほどです。写真は、戸倉に向かう国道401号の「尾瀬古仲橋」(片品村土井)付近から、尾瀬ヶ原手前の尾根を遠望したところです。

 


 鳩待峠の名は、八幡太郎義家が峠を越える際に鳩を放って吉凶を占ったとか、農閑期に尾瀬に入って炭を焼く村人が、峠で山鳩が鳴き出す春になって村に帰るのを家族が待ったことなどに由来するようです。写真は、標高1591mの鳩待峠で、一般的にはここから北に約1時間ほど下って尾瀬ヶ原の西端に出ますが、今回は、ここから尾瀬ヶ原の南に連なる尾根を東に進んで富士見峠に向い、北に下って尾瀬ヶ原を東から西に横断する約21qの周回コースを歩きました。

 


 鳩待峠から富士見峠までの6.3qの尾根歩きのうち、前半は薄暗い樹林の中をひたすら登りますが、1時間ほど歩いた中間地点付近で突然視界が開けると、なだらかに傾斜した明るい湿原が現れます。尾瀬では湿原のことを「田代」と呼びますが、ここは標高1860mの「横田代」で、後方(鳩待峠方向)を振り返ると、日本百名山で標高2228mの「至仏山」(しぶつさん)が大きく望めます。

 

 

 横田代から富士見峠までは、展望の良い木道歩きが延々と続きますが、尾瀬ヶ原に比べると訪れる人は少なく非常に静かです。横田代を過ぎ、標高1968mの中原山のピークを超えると、かつて「天上の楽園」と呼ばれた標高1969mの湿原「アヤメ平」が広がります。遮るものがない360度の視界に、湿原の「池塘」(ちとう。湿原の池)が大空を映し出し、空中に浮かんでいるような錯覚にとらわれます。

 

 

 アヤメ平にはアヤメは生息していませんが、一説では、明治時代の土地の所有者が湿原に群生するキンコウカの葉をアヤメの葉と見誤り、この名前をつけたと言われています。尾瀬ヶ原より500m以上も標高が高いアヤメ平は、雪解けが遅く紅葉が早いなど花の季節は短く、黄色いキンコウカの季節も終わってしまったようです。正面(富士見峠方向)には、日本百名山で標高2356mの「燧ヶ岳」(ひうちがたけ)が近くなってきました。

 


 唱歌「夏の思い出」がNHKで放送されて尾瀬の人気が高まった昭和30年代には、アヤメ平にも大勢の観光客が押し寄せましたが、当時は木道も無く湿原は瞬く間に踏み荒らされて裸地化してしまいました。昭和40年代には植生復元作業が開始されますが、一度破壊された自然を回復するのは容易ではなく、現在も延々と続けられています。写真手前は、復元中の湿原ですが、北に標高2004mの景鶴山(けいづるやま)や日本百名山で標高2140mの平ヶ岳が控え、その手前の地平線下に尾瀬ヶ原が広がります。

 

 


 アヤメ平の先から富士見峠にかけては緩やかな下りとなり、南側が急に切れ落ちて下方の視界が開けます。アヤメ平は約200万年前の火山噴火で形成されたと言われ、北側のなだらかなアヤメ平とは対照的に、南側は溶岩がむき出しになった荒々しい斜面が広がっています。この辺りが最初の写真に写っていた所で、片品村の街並みを俯瞰することができます。

 

 

 

 写真は、富士見峠の少し手前に位置する標高1890mの「富士見田代」の大きな池塘で、ここから尾瀬ヶ原・竜宮に下る4.2qの「長沢新道」が分かれています。池塘は、湿原上の小さな凹みに水が溜まって生成され、ミツガシワなどの水生植物が生えるようになると、水溜まりの周囲の植物が成長を始め、その植物遺体が堆積して岸が高くなると深さを増して小池となり、更に深さを増すとヒツジグサなどが生え、更に深さを増すと水生植物も生えない深い池となるそうです。

 

 


 標高1883mの富士見峠は、富士見峠下、尾瀬ヶ原、尾瀬沼、鳩待峠から計5本の登山道が交差する要衝で、ここから遠く富士山を望めたことから名付けられました。写真は、峠にひっそりと佇む富士見小屋で、かつてはアヤメ平や尾瀬ヶ原への最短距離の入山口として大勢の観光客で賑わいましたが、車の乗り入れで便利になった鳩待峠に観光客が集まるようになると利用者は激減し、昨年82年間に亘る営業の幕を閉じました。

 

 

 


 富士見峠から尾瀬ヶ原・見晴までの5.7qは「八木沢道」と呼ばれ、直線的な長沢新道と異なり、かつて山小屋への物資を積んだ馬が上り下りができるように、標高差約400mを十二曲りと呼ばれる坂で何度も折り返しながら樹林の中を緩やかに下っていきます。写真は、標高1550mの中間地点の水場で、かつてこの辺りで昼食にしたことから「昼場」と名付けられましたが、視界が少し開けて燧ヶ岳が見えています。

 


 標高1400mの尾瀬ヶ原は、2000m級の山々に囲まれた東西6q、南北2qにも及ぶ本州最大の高層湿原で、拠水林(湿原に流れ込む川に沿って帯状に形成された林)によって西から上田代、中田代、下田代に分けられます。下田代を一望する「見晴」(みはらし)は、燧ヶ岳の麓に位置し、富士見峠、尾瀬沼、山の鼻、三条の滝からの道が交差することから「下田代十字路」とも呼ばれています。尾瀬沼と尾瀬ヶ原を結ぶ要衝で、尾瀬ヶ原の中では最も多い6軒の山小屋が建っています。

 

 

 尾瀬ヶ原は、群馬県、福島県、新潟県にまたがりますが、今回の周回コースは、福島県に属する下田代付近を除き、群馬県に属しています。写真は、富士見峠、山の鼻、見晴、ヨッピ橋からの道が交差する中田代の「竜宮十字路」で、後方に福島県と群馬県を分ける沼尻川に沿った拠水林が見えています。なお、竜宮の名は、この辺りの池塘が、湿原の下で繋がるカルスト(浸食地形)を形成し、奥底の竜宮城にも通じていることから名付けられたと言われています。

 


 下田代・見晴から中田代・竜宮十字路を経て上田代・山の鼻に至る6qの木道は、尾瀬ヶ原を東西に横断するメインルートで、湿原上を双方向に行き交う大勢の観光客で賑わいます。前方の湿原に牛の首のように突き出た丘は「牛首」と呼ばれ、尾瀬ヶ原が一番狭くなった所です。ここまでが中田代で、牛首から先は上田代となり、正面の至仏山が近くなってきました。

 

 

 上田代は、尾瀬ヶ原の中でも池塘が最も多い所で、点在する池塘の間を縫うように木道が延びており、間近に眺めることができます。周囲の景色を映し出す池塘の水面が風に揺られて表情を変えることから、別名「ユルギ田代」とも呼ばれています。写真の池塘には、未(ヒツジ)の刻(午後2時)に開花することから名付けられたスイレン科のヒツジグサが、葉と白い花を水面に浮かべています。

 


 写真は、尾瀬ヶ原に西端に位置する上田代の「山の鼻」で、至仏山の裾が鼻のように突き出ていることから名付けられました。現在は、尾瀬ヶ原への代表的な入山口で、至仏山への登山道も出ていることから、大勢の観光客で賑わいます。ここから鳩待峠までは3.3q、標高差約200mの比較的なだらかな上りで、約1時間30分ほどの行程です。

 

 

 (参考図書等:「尾瀬」(山と渓谷社)、「尾瀬」(JTB)、「群馬県の山」(山と渓谷社)、「ぐんま百名山」(上毛新聞社)、観光パンフレット、現地の説明板等)