ぐんま観光特使の新・群馬紀行
第14回 榛名神社を巡る史跡と周辺の景観(その2)

 皆様、こんにちは。
 梅雨が明け、いよいよ夏本番です。

 

 さて、新・群馬紀行第14回も、引き続き榛名神社を巡る史跡と周辺の景観(その2)をご紹介します。

 

 

 前回で、江戸からの代参者の道筋をご紹介しましたが、信州や西国からの代参者は、中山道の松井田宿から分かれて地蔵峠や風戸峠を越えて旧倉渕村に入りました。安中市松井田町と高崎市倉渕町を分ける地蔵峠(692m)には、幕末に旧倉渕村で非業の死を遂げた小栗上野介忠順(ただまさ)にまつわる殉難碑が建てられています。忠順の家臣・塚本真彦の家族6人(母、妻、子)は、七日市藩(現富岡市)の縁者を頼るために地蔵峠を目指しますが、山中で道に迷い、幼い姉妹は相間川辺で落命(群馬紀行第18回参照)し、母と長女は峠付近で自刃しました。写真は、峠の殉難碑と榛名山です。

 


 一方、安中市東上秋間と高崎市上里見町を分ける風戸峠(510m)は、松井田宿を挟んで妙義神社(同第44回参照)と榛名神社を結ぶ旧参詣道で、峠への登り口に1678年に建てられた「恵宝沢(えほさわ)の道標」には「これより北はるなみち、これより南みょうぎみち」と刻まれています。写真中央の道標から左に分かれる坂道が旧参詣道で、現在は全長7.4qの「関東ふれあいの道・山菜の道」となっています。

 


 榛名山南西麓に位置する旧倉渕村は、南北朝時代には榛名山の座主職を巡る戦場になり、戦国時代には真田昌幸などが砦を築き、江戸時代には信州街道の三ノ倉宿があって榛名神社への参詣道が交差する交通の要衝として賑わい、またその末期には小栗上野介の終焉地となりました。このためこれらの歴史を伝える文化財が数多く残されており、信州街道と風戸峠越えの参詣道が交差する所には「落合の道祖神」が佇んでいます。

 

 

 榛名山は、かつては標高約2500mの成層火山でしたが、約22万5千年前の大爆発により巨大なカルデラ(凹地)が形成され、掃部ヶ岳、杏ヶ岳(すもんがだけ)、鏡台山、天狗山、音羽山、鷹ノ巣山などが半円形に並ぶ外輪山となりました。写真右は、榛名神社の参道から分かれる鏡台山と天狗山への登山道で、写真左は、1847年に建てられた八脚門の「随神門」です。当初は、運慶作と伝えられる仁王像が置かれた仁王門でしたが、神仏分離令により仁王像は焼かれ、明治39年に随神像が祀られました。

 

 

 標高1179mの天狗山は、かつては修験の山として知られ、山中には鳥居や石造物が数多くありますが、山頂には巨大な岩が突き出していて、横から見た山容が天狗の面に似ていることから名付けられたそうです。途中で展望の良い標高1073mの鏡台山への道を分け、神社から約90分で登ることができますが、榛名山南面の前衛に位置するため、頂上の岩場からの展望は抜群です。

 


 一方、榛名神社の参道奥から山上の榛名湖に通ずる「関東ふれあいの道・榛名山への道」は、かつては麓を通る信州街道の裏往還として利用された道で、榛名湖手前の天神峠まで約50分で歩くことができます。写真は、神社の裏手にある「榛名山番所跡」ですが、裏往還の通行を取り締まりまるために1631年に設置され、幕府の命により榛名山別当職が管理しました。

 


 番所跡の先にある「榛名川上流砂防堰堤」は、榛名川の増水による土砂災害を防止する目的で昭和30年に建設されました。高さ15mの堰堤(えんてい)を当時としては高度な練石積(石と石の間にコンクリートを混ぜた積み方)の技術や機械を用いて造られたもので、平成18年に有形文化財に登録されました。堰堤の後方に見える「九折岩」(つづらいわ)は、榛名神社の奇岩の一つで、岩が九十九折(つづらおり)の様に折れ曲がっていることから名付けられました。

 

 

 

 「天神峠の石燈籠」は、塩原太助の行った公共事業の一つで、江戸に向けて故郷を出奔した太助が、天神峠を越えて裏往還を下り、榛名神社の御師・山本坊を訪ねる際、峠の暗さに難儀した経験から、常夜灯を建てて油代を送りました。高さが約5.5mもある大きな石造物で、当初は約100m東方の旧峠上に建てられていましたが、昭和57年に現在地に移築されました。

 


 湖面標高1084mの榛名湖は、約4万2千年前の山頂カルデラ(4×2q)に水が溜まって生まれ、その後の長い火山活動により勾玉(まがたま)形に縮小(1.3×1q)しました。湖畔には榛名湖温泉があり、釣り、ボート、スケート、キャンプ、花見など1年を通じて楽しめるレジャーのメッカとなっています。写真は、榛名山最高峰の掃部ヶ岳(1449m)で、右のホテル上の小さいピークは硯岩(すずりいわ)です。

 


 湖畔の木部神社(御沼おかみ神社)には、箕輪城主・長野業政の四女・木部姫の入水伝説があります。業政の家臣・木部範虎に嫁いでいた姫は、箕輪城落城に際して城を脱出し、夫の身を案じつつ榛名山に向かいますが、山頂の峠から城の方向が赤く染まっているのを見て落城を悟ると、悲しんで榛名湖に入水し、腰元達もその後を追います。その後姫は水を掌る龍神に化身し、腰元達は蟹に化身して今でも姫を探して水を清めているそうですが、龍神を祀る木部神社の傍には、姫と腰元の供養塔が建てられました。

 


 山上の湖には女人入水伝説(新・群馬紀行第1回・赤城山小沼参照)が多く、寂しい湖に若い女性を近づかせないための戒めとして広まったとも言われています。写真は、榛名山北東麓に位置する東吾妻町の「箱島湧水(ゆうすい)」で、大杉の根元から日量3万トンもの水が湧出し、県内では甘楽町の雄川堰(同第31回参照)とともに日本百名水に選ばれています。この湧水が榛名湖に通じていて、入水して大蛇に化身した木部姫(前述とは別人)を供養するために湖に沈めた位牌がここに流れ着き、右上の「箱島不動尊」に納められているという伝説があります。

 

 

 写真は、硯を立てたように切り立った硯岩(1251m)から俯瞰したところですが、勾玉形をした榛名湖周辺の箱庭のような景色を一望することができます。正面の山は約3万1千年前に山頂カルデラのほぼ中央部に溶岩が噴出して誕生した榛名富士(1391m)で、右後方の小さく尖った山が榛名山2番目の標高を誇る相馬山(1411m、同第35回参照)です。左奥には赤城山が見えています。

 


 榛名山の最高峰である掃部ヶ岳(1449m)は、榛名湖の西端に位置し、湖畔の登山口から約1時間で登ることができます。頂上は、南方向に180度の視界が開け、榛名山南麓を見下ろし、西上州や秩父の山々を遠望することができます。写真は、頂上手前の岩場から東南方向を俯瞰したところですが、右隅に榛名神社の赤い大鳥居が小さく見え、榛名神社、天狗山(中央右の木の辺り)、天神峠、榛名湖などの位置関係が良くわかります。

 

 (参考図書等:高崎市榛名歴史民俗資料館、「榛名学」(上毛新聞社)、「まんが榛名の歴史」(群馬県榛名町)、「群馬県の山」(山と渓谷社)、「ぐんま百名山」(上毛新聞社)、観光パンフレット、現地の説明板等)