ぐんま観光特使の新・群馬紀行
第13回 榛名神社を巡る史跡と周辺の景観(その1)

 皆様、こんにちは。
 関東地方も梅雨が明けました。

 

 さて、新・群馬紀行第13回は、上毛三山の一つ榛名山の中腹標高850mに鎮座する榛名神社を巡る史跡と周辺の景観(その1)をご紹介します。東京郊外から関越自動車道・高崎IC経由で約120q、2時間ほどです。

 

 585年の創建とも伝えられる「榛名神社」は、古くから修験者の霊場として信仰され、上野十二社中の六の宮に格付けされた由緒ある神社です。境内の面積は18.5ヘクタール、榛名川の清流に沿った参道は700mに達し、杉の古木と奇岩が折り重なって、深山幽谷の雰囲気を醸し出しています。主祭神は火の神と土の神で、鎮火、開運、五穀豊穣、商売繁盛に御利益があると言われており、最近は、関東屈指のパワースポットとしても有名です。写真は、参道入口に近年建てられた大鳥居ですが、鳥居の中に見える山(中央のピーク)が榛名山の最高峰「掃部ヶ岳」(かもんがたけ)です。

 


 古くから神仏習合が定着した榛名神社には別当寺(神社を管理する寺)が置かれ、榛名山巌殿寺(がんでんじ)などと称されました。平安時代には関白藤原道長の子孫が京都から赴任し、座主(ざす。寺を統括する僧)職を継承しましたが、室町時代には南北朝の動乱に巻き込まれ、座主職を巡って争奪戦が繰り広げられました。写真は、榛名山南麓に位置する高崎市倉渕町三ノ倉の「榛名山座主の森」で、北朝側の僧・頼印との戦いで討ち死にした南朝側の僧・快尊とその子・忠尊、快承の墓です。

 


  室町時代には「本地仏」(ほんじぶつ。神様の本来の姿である仏様)として「勝軍地蔵」が信仰され、足利氏、長野氏、上杉氏らの武将の保護を受け、戦国時代には、この地方を支配した武将が配下の者を俗別当に任命しました。写真は、武田信玄が長野氏の居城・箕輪城(群馬紀行第14回参照)を攻略する際、戦勝祈願のために矢を射立てたと伝えられる樹齢約500年の「矢立杉」(やたてすぎ)で、国の天然記念物に指定されています。

 

 


  長野氏の滅亡により一時衰退していた榛名神社は、天海僧正により復興され、徳川家の菩提寺・上野寛永寺に属して、麓の光明寺(高崎市中里見町)が別当を務めました。江戸時代には、榛名神社を信仰する関東甲信越の村人が「榛名講」という団体を作り、数名の代表が参拝してお礼を受け、帰村して講中の各戸にお札を配布する「代参講」が流行りました。江戸からの代参者は、中山道・高崎宿の先の「右 はるなみち くさつみち」と刻まれた「下豊岡の道しるべ」(同第51回参照)から信州街道に入り、正面に見える榛名山に向かいます。

 

 

 代参講の拡大により門前の社家町(しゃけまち。神職の家が集まった所)は発展し、参拝の案内、指導、祈祷など様々な便宜を図る「御師」(おし)と呼ばれる神職が代参者に食事や宿泊を提供するために営む「宿坊」が参道に建ち並びました。最盛期には百軒を数えた宿坊は、現在も14軒が残っていて、その一つである「般若坊」(写真右)は、国の有形文化財に登録されています。

 


 江戸商人の信仰者も多く、本所(墨田区)で炭屋を商う塩原太助(同第42回参照)もその一人でした。1743年に三国街道・下新田宿(みなかみ町)の農家に生まれた太助は、継母の仕打ちの辛さに耐えかねて19歳の時に無一文で江戸に出奔しますが、その際、生家で顔見知りだった御師・山本坊を頼り、路銀を借り受けました。後年、財をなした太助は、多額の私財を公共事業に投じますが、写真は、報恩のために榛名神社に奉納した「塩原太助の玉垣」です。

 


 榛名講には、五穀豊穣を祈願して神楽を奏上する「太々講」(だいだいこう)や雨乞いを祈願する「雨乞講」などもありました。写真は、1739年に萬年泉(まんねんせん)という井戸の傍に建てられた「萬年泉碑」で、干ばつになると雨乞講の代表者が代参し、萬年泉から汲んだ御神水を竹筒に入れて帰村すると雨が降ると伝えられています。

 

 

 

 江戸時代中期以降は、信仰者の寄進によって大規模な社殿造営がなされ、現在、境内の「本殿」「国祖(こくそ)社及び額(がく)殿」「神楽殿」「双龍門」「神幸(みゆき)殿」「随神(ずいしん)門」の6つの建物が国の重要文化財に指定されています。写真は、瓢箪を横にしたような岩の間を流れる滝ですが、岩を神に供える神酒を入れる瓶子(みすず)に見立てたことから、「瓶子の滝」と呼ばれています。

 


 「双龍門」は、鉾岩(ほこいわ)の根本にある神門をくぐり、180度向きを変えて石段を上がった所に1855年に建てられた総ケヤキ造りの四脚門で、彫刻や色彩画などに龍が多く取り入れられていることから名付けられました。傍らに聳える鉾岩との取り合わせは、境内一の景観となっています。

 

 


 「本殿」(写真左から本社、弊殿、拝殿)は、双龍門をくぐって最後の石段を登った所に1806年に建てられた権現造り(東照宮など徳川氏関係の神社に多く用いられた建築様式)の建物で、岩の頂部が人間の頭の形をしていることから神の身代わりの姿だとして名付けられた御姿岩(みすがたいわ)の前面に接しており、岩内の洞窟を神聖な本殿として御神体が祀られています。

 


 「国祖社及び額殿」は、本殿と「神楽殿」に隣接しており、このうち1735年に建てられた国祖社は、神仏習合時代には本地堂と呼ばれ、本地仏の勝軍地蔵が祀られていました。一方、額殿は神楽拝見所として1814年に増築され、建物内外に大小の太々神楽の奉納額が掲げられていることから名付けられました。写真左隅の「鉄燈籠」は、1323年に新田義貞が寄進したと伝えられています。

 

 

 

 明治元年に神仏分離令が出されると、仏教色は一掃され、榛名山巌殿寺から榛名神社の社号に復しました。更に同5年に修験宗廃止令が出されて呪術、祈祷などが禁止されると、御師の収入源は大幅に閉ざされたため、その対策の一つとして、榛名神社は群馬県令の許可を得て八本松から惣門まで続いていた杉並木を伐採しました。写真は、参道入口にある「高崎市榛名歴史民俗資料館」ですが、階段脇に当時伐採した切り株が展示されています。

 

 (参考図書等:高崎市榛名歴史民俗資料館、「榛名学」(上毛新聞社)、「まんが榛名の歴史」(群馬県榛名町)、観光パンフレット、現地の説明板等)