ぐんま観光特使の新・群馬紀行
第11回 旧中山道・碓氷峠越えの道

 

 皆様、こんにちは。
関東地方も梅雨入しました。

 

 さて、新・群馬紀行第11回は、安中市の「旧中山道・碓氷峠越えの道」をご紹介します。既に、群馬紀行第20回「碓氷峠と碓氷鉄道施設」と同第50回「中山道(その1)」でその一部をご紹介していますが、今回は、JR信越本線・横川駅に近い碓氷関所跡から旧碓氷峠の熊野神社までの峠越えの道(約15q)を歩いてみました。

 

 

 1855年(安政2年)に安中藩主・板倉勝明は、藩士の心身を鍛えるために安中城から碓氷峠の熊野神社までの中山道7里(約29q)の遠足(とおあし。現在のマラソン)を命じましたが、現在は毎年5月の第2日曜日に開催される「安政遠足・侍マラソン」のコースとなっています。当日は開催日にあたり、復元された「碓氷関所跡・東門」を大勢の仮装したランナーが通過していました。

 

 


 五街道の一つである「中山道」は、別名「木曾街道」とも呼ばれ、延長132里(約530q)に69の宿場を有する江戸と京都を結ぶ幹線道路でした。写真は、江戸から17番目で群馬県内最後の「坂本宿」の江戸側の入り口「下木戸(しもきど)跡」で、明け六つ(午前6時)に開けられ、暮れ六つ(午後6時)に閉められました。正面の山は、錦絵「木曾街道六十九次」にも大きく描かれている標高810mの「刎石(はねいし)山」です。

 


 江戸の北の守りとして「入鉄砲に出女」が厳しく監視された碓氷関所と和田峠(長野県)とともに中山道の難所であった碓氷峠に挟まれた坂本宿には、旅人の宿泊が必然となって多くの旅籠屋がありました。また、参勤交代の往来を考慮して本陣が2軒、脇本陣が4軒あり、実際1790年には参勤する加賀藩・松平家と交代する松代藩・真田家がすれ違い、別の本陣に宿泊しました。写真は、上の本陣とも呼ばれた峠側の「佐藤本陣跡」で、明治8年に坂本小学校の仮校舎となり、同34年に旅館として建て替えられました。

 

 

 


 写真は、坂本宿を抜けて碓氷峠に向かう国道18号ですが、右が旧中山道・碓氷峠越えの道の入口になっています。律令時代の東山道や鎌倉街道とも重なる古道には歴史的遺構が数多く残されており、ここから熊野神社までの直線約7.1qは「日本の道百選」に選ばれています。国道の左下には、碓氷線の廃線敷を利用して整備された遊歩道「アプトの道」(同第20回参照)が見えています。

 

 

 

 熊野神社までの道は、碓氷関所との標高差約800mを溶岩流で均(なら)された長い道筋(約15q)で登るため、全体的には比較的なだらかですが、最初の「刎石坂」と呼ばれる刎石山の登りは、岩石が転がる急斜面で、峠越えの最大の難所でした。写真は、大きな岩盤が露出した所ですが、溶岩が冷却され固結する時に亀裂を生じ、四角又は六角の柱状に割れた「柱状節理」が観察できます。なお、刎石山の由来は、柱状節理の様子が、まるで石を刀で刎ねたように見えることから名付けられたとも言われています。

 

 

 


 刎石山の頂上手前には、坂本宿を俯瞰する「覗」(のぞき)と呼ばれる場所があります。碓氷川に沿った台地上に計画的に造られた坂本宿は、約700mの直線道の両側に家屋が建ち並び、その裏手に短冊状の細長い畑が続いていました。よく見ると、南(右)側の家屋は鬼門の方角を除(よ)ける意味で道に対して斜めに15度ずらして建てられた様子が分かります。

 


 樹木に囲まれた刎石山の頂上には、参勤交代の大名が休息した茶屋本陣と3軒の茶屋があり、名物の「力餅」などが振る舞われましたが、写真の「四軒茶屋跡」には当時の家屋の石垣が残っています。この先に現在の休憩小屋がありますが、律令時代に東山道で運ばれる租税や貢納品の略奪横領が多発したため、899年に醍醐天皇がその付近に関所を設けて盗賊を取り締まったと伝えられています。

 

 

 武田氏滅亡後に西上州を支配した北条氏は、重臣の大道寺政繁(同第50回参照)を松井田城に入れて碓氷峠の守りを固めました。写真は、アプトの道「めがね橋」の上方に位置する「堀り切り」(道の両側を堀り切って狭くした部分)で、1590年の小田原攻めの際には、政繁の北条軍3千はここで防戦に努めますが、前田利家、上杉景勝、真田昌幸らの豊臣軍3万5千に破られ降伏します。

 


 標高1107mの子持山の山麓を登る「山中坂」は、別名「飯食い坂」とも呼ばれる急坂で、空腹ではとても登り切れないことから、坂の手前には13軒の茶屋があって繁盛しました。熊野神社まで3q弱の場所にあった「山中茶屋」には部落が形成され、明治時代には学校も建てられて、明治天皇御巡幸の際には児童25人に対して25円の奨学金が下付されたそうです。

 

 

 

 山中坂を越えた所が「陣馬ヶ原」と呼ばれる古戦場跡で、南北朝時代の1352年には新田義貞の二男・義宗らの南朝軍と足利尊氏らの北朝軍が戦い、戦国時代の1546年には武田晴信と関東管領上杉憲政が戦ったと伝えられています。ここから道は左右に分かれ、左は細く険しい旧中山道、右は1861年の皇女和宮御下向(同第51回参照)に際し開削された広く平坦な「和宮道」で、現在の安政遠足は和宮道を進みます。

 


 熊野神社の手前で旧中山道と和宮道は再び合流しますが、合流点下方にある「碓氷貞光神社」は、熊野神社の境外社(末社)で、碓氷峠の山中で生まれ育った碓氷兼光・貞光親子を祀っています。怪力の貞光は、伝説「大江山の鬼退治」で有名な平安時代の武将・源頼光の四天王(渡辺綱、坂田金時、卜部季武、碓氷貞光)の一人で、足柄山の金太郎(坂田金時)を見い出して頼光に引き合わせたとも伝えられています。なお、碓氷峠名物の「力餅」は、力持ちの貞光に因んだものです。

 

 

 標高1190mの碓氷峠の頂上に鎮座する「熊野神社」は、かつて日本武尊が東国平定の帰路に碓氷峠で濃霧に巻かれた際、紀州・熊野山の梛(なぎ)の葉を咥えて落としながら先導する八咫烏のおかげで頂上に達することができたことを感謝して熊野神を祀ったものと伝えられています。写真のとおり、参道から社殿の中央を県境が通っており、一つの境内に「熊野神社」(群馬県)と「熊野皇大神社」(長野県)の二つの神社が存在しています。

 


 写真は、戦国時代に狼煙(のろし)台があった「碓氷峠見晴台」で、片勾配になっている群馬県側の視界が開け、中山道が通る安中市や高崎市を見下ろすことができます。日本武尊は、碓氷峠から眺めた雲海から海を連想し、入水した亡き妻・乙橘姫を偲んで「吾嬬者邪」(あずまはや。「ああ我が妻よ」の意)と嘆いたと伝えられますが、この伝説は、信州街道の鳥居峠(吾妻郡嬬恋村。同第63回参照)や沼田街道の橘山(渋川市。同第62回参照)にも伝えられています。

 

(参考図書等:観光パンフレット、現地の説明板等)