ぐんま観光特使の新・群馬紀行
第10回 桜の名所(その4)

 

 皆様、こんにちは。

 

 さて、新・群馬紀行第10回は、桜の名所(その4)として、群馬県内の遅咲きの桜をご紹介します。

 

 

 最初は、利根郡川場村天神(てんじん)の「天神城址」の桜です。沼田城を築いた沼田顕泰(あきやす)は、1557年に薄根川と溝又川が合流する要害の地に天神城(群馬紀行第38回参照)を築くと嫡子・朝憲に家督を譲って隠居しますが、庶子・景義を推す一派にそそのかされて朝憲を謀殺したことから、逆に朝憲派に攻められて1569年に落城し、尾瀬を越えて会津に敗走しました。波乱の城は、現在は史跡として整備され、桜やツツジが植えられています。

 

 


 天神城址に近い川場村生品(なましな)の田園地帯を流れる田沢川に、高さ、幅とも約10mの「兜(かぶと)滝」と呼ばれる滝があります。水量は豊富で30〜40度位の傾斜を末広がりに勢いよく流れる様は、確かに武者が被る兜に似ています。ここにも八重桜が植えられていて、情景に花を添えていました。

 

 

 


 3ヶ所目は、利根郡片品村花咲(はなさく)の「オキノ桜」です。右手の道は、かつて顕泰も通った「旧会津街道〜東入り・川場回り」の道筋(同第64回参照)で、旅人の往来が多く、宿場が置かれました。約100年前に旅籠を営んでいたオキノさんが、京都の伏見稲荷大明神から勧請したお宮の庭に植えたもので、大小9本の幹が一まとまりとなった立派な桜に成長しました。

 

 


 4ヶ所目は、オキノ桜から旧会津街道を尾瀬方向に数百メートル進んだ片品村針山の「天皇桜」です。オキノ桜と同様、標高の高い地域に自生する大山桜で、樹齢は約300年と言われ、太山桜としては県内屈指の大きさを誇ります。根元に天皇様と呼ばれる小さな祠があることから名付けられ、古くから田植え時期の目安として利用されていたようです。

 

 

 

 戊辰戦争の折、会津軍の侵攻に備え旧会津街道を戸倉に向かう官軍の沼田藩士25人が、大雨の中を天皇桜の脇を通って養蚕農家で神官でもあった「永井紺周郎」宅に宿泊し、濡れた衣服を乾かすために蚕室で一昼夜たき火をしました。蚕は火を嫌うものと考えられていた当時、紺周郎は蚕の全滅を覚悟しましたが、逆に蚕の病気が回復して豊作となったことから、火力を積極的に使う飼育法「いぶし飼い」を考案し、その後種々の改良を加えて永井流養蚕術を確立しました。

 

 


 明治5年に県から養蚕検査養蚕見廻り役を命ぜられた紺周郎は、同20年には永井流養蚕伝習所の設置許可を県に提出しますが間もなく他界し、夫の意志を継いだ妻・いとによって「永井流養蚕伝習所実習棟」が建設されました。伝習所の教師となったいとは、約1500人の生徒に永井流養蚕術を伝えるとともに「農家の財布の紐はかかあが握るべし」と説いたそうです。平成27年4月、伝習所実習棟は日本遺産「かかあ天下−ぐんまの絹物語−」の構成遺産の一つに認定されました。写真左が実習棟で、右奥に天皇桜が見えています。

 


 5ヶ所目は、天皇桜から旧会津街道を尾瀬方向に更に約2.5qほど進んだ所にある片品村花咲の「仲次郎桜」です。かつてこの地に移り住み、馬の病気や怪我などを治して村人を助けていた獣医の仲次郎という人が、この桜を植えて花見を楽しんだそうです。なお、仲次郎桜のすぐ近くには、スキーや登山帰りの人などでいつも賑わっている日帰り入浴施設「花の駅・片品・花咲の湯」があります。

 

 

 6ヶ所目は、沼田市上発知(ほっち)町の「上発知のシダレザクラ」です。第8回でご紹介した「発地のヒガンザクラ」の約3q北に位置しますが、標高差があるためこちらの方が開花時期は遅いようです。見通しの良い畑の真ん中の高台に根付き、遠くからでもすぐにそれと分かります。

 

 

 


 7ヶ所目は、沼田市白沢町の「石割(いしわり)桜」です。大きな根が大石を割いて伸びていることから名付けられたこの桜は、山桜などより遅く咲き始める霞桜で、樹木全体に霞がかかったようにまばらに咲いています。「見る人の ためにはあらで おくやまにおのがまことを 咲くさくらかな 読人不知」という添え歌がありますが、ゴルフ場に向かう山道の傍らにひっそり根付いています。

 

 

 

 最後は、渋川市白井の「白井(しろい)宿」の桜並木です。国道17号鯉沢バイパス沿いの道の駅「こもち」に隣接する白井宿(同第7回参照)は、関東管領上杉氏に属する白井長尾氏の居城・白井城の城下町として成立し、江戸時代には市場町として繁栄しました。全長約900mの宿の中央を流れる白井堰の両側に植えられた八重桜の濃いピンク色と道の両側に連なる家屋の白壁の対比が綺麗です。

 

 (参考図書等:観光パンフレット、現地の説明板等)