ぐんま観光特使の新・群馬紀行
第8回 桜の名所(その2)

 

 皆様、こんにちは。都内の桜は概ね散って、葉桜となっています。

 

 さて、新・群馬紀行第8回は、引き続き群馬県内の桜の名所をご紹介します。県土の約3分の2が山岳地の群馬県では、南東の平野部と北西の山岳地帯で桜の開花時期が大きく異なるため、各地を巡れば1ヶ月以上花見を楽しむことができます。

 

 最初は、桐生市の「桐生が岡動物園・遊園地」の桜です。標高481mの「吾妻山」(あずまやま、群馬紀行第1回参照)の麓の丘陵に整備され、桜の名所としても知られています。入場無料の動物園には100種類以上の動物が飼育され、遊園地の乗り物料金も安いので、いつも大勢の家族連れで賑わっています。写真は、動物園から遊園地を見たところで、後方左が吾妻山です。

 

 


 2ヶ所目は、前橋市苗ヶ島町の「赤城南面千本桜」です。赤城山南麓を南北に通ずる約1.3qの坂道の両側に約千本のソメイヨシノが植えられ、満開時には桜のトンネルになりますが、標高430mから同700mに至る標高差があるため、南北で開花時期が異なります。また、隣接する「みやぎ千本桜の森」にも、世界中の37種約500本の桜や約15万株の芝桜があります。

 

 


 3ヶ所目は、赤城南面千本桜の西約5qにある前橋市滝窪町の道の駅「ぐりーんふらわー牧場・大胡」の桜です。約16万平方キロメートルの芝生広場を囲むように約500本のソメイヨシノが植えられていて、のんびりと草を食む牛と桜のツーショットを見ることができます。広場には駅のシンボルである北関東随一のオランダ型風車や展望台があり、遠くスカイツリーを望むことができます。

 

 

 4ヶ所目は、渋川市赤城町の「桜森のヒガンザクラ」です。農民の娯楽としての地芝居が流行した旧沼田街道沿いの「上の森八幡宮」境内にあり、1811年に「津久田の人形舞台」(同第62回参照)が建てられました。この辺りはかつて「桜の森」と呼ばれた名所で、樹齢約400年の桜はその名残だと言われています。隣接する竹林は、国の天然記念物「敷島のキンメイチク」で、竹の節のくぼみに平行に黄色の模様が規則正しく並んでいます。

 

 

 5ヶ所目は、渋川市金井の「金蔵寺(こんぞうじ)のしだれザクラ」です。樹齢は約400年で、この桜が咲き始める頃、里芋の種を取り出して植え付けを始めることから、地元では「いも種ザクラ」とも呼ぶそうです。1401年創建の金蔵寺は、旧三国街道の金井宿(同53回参照)にあり、桜の下の山門は、宿外れの吾妻川の手前に設置された「杢ヶ橋(もくがばし)関所」の門を移築したものと伝わっています。

 


 6ヶ所目は、沼田市の「沼田城址公園」の桜です。関東と越後、会津を結ぶ要衝に築かれた沼田城は、戦国時代に上杉氏、北条氏、真田氏らによる激しい争奪戦(同第38〜40回参照)の舞台となり、北条氏滅亡後の1590年に上田城主・真田昌幸の長男・信幸が城主となりました。写真は、桜に囲まれた信幸・小松姫夫妻の石像で、大河ドラマ「真田丸」の放送に先立ち建てられました。小松姫は、徳川方の猛将・本多忠勝の娘で、家康の養女として信幸に嫁し、関ヶ原の合戦に向かう夫の留守を預かった際には、敵に別れた義父・昌幸、義弟・信繁の入城を毅然として拒み、女丈夫と謳われました。

 


 関ヶ原の合戦後、上田領を合わせて9万5千石の大名となった信幸は、領内の開発を進めて城下町沼田の基礎を築くとともに、沼田城に五層の天守閣を築きました。その後、長男・信吉を沼田藩に分家すると、本家の上田藩は1622年に松代藩10万石に国替えとなりそのまま幕末を迎えます。一方、分家の沼田藩は5代・信利の失政により1681年に改易、沼田城は完全に破却されてしまいます。写真は、信幸の代に植えられた樹齢約400年の「沼田城御殿桜」ですが、その後の風雪に耐えて沼田城の形見となっています。

 

 

 最後は、沼田市中発知(ほっち)町の「発知のヒガンザクラ」です。沼田市内の彼岸桜の中では最も幹が太く、高台に根を張って枝振りも良いため、下から見上げる姿には迫力があります。樹齢は約500年で、苗代作りの頃に開花することから、地元では「発知の苗代桜」とも呼ぶそうです。

 

 

(参考図書等:観光パンフレット、現地の説明板等)