本部長の群馬紀行
第53回 三国街道(その1)

 皆様、こんにちは。
5月も終わろうとしていますが、前橋市付近は爽やかな五月晴れの日が続いています。

 自衛隊幹部候補生試験を受験された皆様の第1次試験突破を祈念しています。

 

 さて、群馬紀行第53、54回は、前回の「中山道」に続く街道シリーズで、高崎から上越国境の三国峠に至る「三国街道」周辺の史跡と自然をご紹介します。同第42回で中間の「横堀宿」と「中山宿」をご紹介しましたので、今回は前半の「高崎宿」から「横堀宿」の間をご紹介します。

 

 

 五街道に次ぐ主要道である「三国街道」は、かつては中山道の本庄宿から分かれて玉村、総社、大久保、八木原の各宿を経て渋川宿に至る利根川沿いの道(佐渡奉行街道、同第29回参照)が本道でしたが、後に高崎宿から分かれて榛名山麓を金古宿、渋川宿と北上する道が発展して本道となりました。起点は高崎市本町一丁目の交差点(同第46回参照)で、三国峠まで県内の路程は約75kmです。写真は、起点から3km弱の高崎市下小鳥町の「右えちご 左はるな」と刻まれた道しるべで、左に進むと榛名山や伊香保温泉方面に至り、右の小道が旧三国街道であることを示しています。

 

 

 その道しるべを右に折れて旧三国街道を少し進んだ高崎市大八木町に、高さ5mもある立派な常夜灯があります。やや離れた場所にある諏訪神社のものですが、これが前回ご紹介した、宿客から8年間も浄財を集めて1815年に中山道の新町宿の入り口近くの神流川の岸に建てられた石造りの燈籠で、廃物同然になっていたところを明治24年に買い取られこの地に移されました。

 

 

 

 

 高崎宿を発って最初の宿場である「金古宿」は、江戸時代初期に成立し、本陣、脇本陣のほか、旅籠屋数十軒が南北約1.3kmに亘り建ち並んで繁栄しました。写真は、宿場を治めていた3人の旗本の一人・松田氏の代官を務めた神保家の屋敷跡(高崎市金古町)で、左に見える総ケヤキ造りの表門には幕末1868年の世直し一揆に襲撃された際の補修跡が残っています。

 

 

 

 金古宿の先の吉岡町南下(みなみしも)付近には、6世紀から7世紀にかけて築かれた「南下古墳群」があります。6つの円墳が狭い範囲に点在し、そのうち5基の石室が開口していて、石室規模や構造技術の変遷を知ることができる貴重な古墳群です。また、1663年に吉岡町北下(きたしも)に生まれた「馬場重久」(ばばしげひさ)は、医を業としながら貧農の救済に努力し、1712年に著した「蚕養育手鑑」(かいこよういくてかがみ)は、蚕の飼育法や蚕種の貯蔵法などを説いた我が国初の養蚕手引書で、古いしきたりに頼っていた初期の養蚕業に大きな発展をもたらしました。写真は、生誕地に建つ重久の墓で、その後方を横切る道が旧三国街道です。

 

 

 

 この辺りの旧三国街道は、本通りから外れた田畑の中を通る道として残されており、当時の情景を偲ぶことができます。写真は、吉岡町上野田の「三国街道の一里塚」で、高崎宿の起点から4里(約16km)の地点にあります。昭和の初期まで樹齢数百年の榎の大木があったそうですが、現在の榎は二代目です。前方の山は「子持山」で、旧三国街道は子持山の西側鞍部を越える中山峠を目指します。

 

 

 

 

 関東平野の北西隅に位置する「渋川宿」は、利根川と吾妻川の合流点に開けた谷口集落で、越後国、信濃国、吾妻方面からの物資が集積し、三国街道と佐渡奉行街道が合流・分岐する交通の要衝でした。渋川宿は、東西約430mに亘って上之町、中之町、下之町の3町に宿割りされ、3町が交互に六斎市を開く市場町としても栄えました。写真は、三国街道との合流点に近い佐渡奉行街道沿いの上之町(渋川市渋川)の老舗の金物商家「堀口家住宅店蔵」で、国の登録有形文化財となっています。

 

 

 

 渋川は、北緯36度29分、東経139度で日本の中心付近に位置し、古くから日本の中心と言われ、これを伝える「臍(へそ)石」があります。遠い昔、征夷大将軍・坂上田村麻呂が蝦夷征伐の途上で渋川を訪れた際、臍に似た石を見つけて「都から蝦夷に向かう半ばのこの地こそ日本の中心で、これを臍石と定める。」としたことから名付けられたそうです。写真は、下之町(渋川市渋川)の県道沿いにある「臍石」とお腹に臍が見える「臍地蔵」です。

 

 

 

 渋川の地は、荒々しい自然環境に囲まれ、宿場町・市場町で現金収入が多く、伊香保などの温泉町にも近くて遊興に事欠かないなど何かと落ち着きがない土地柄故、これを警戒して庶民教育が盛んになったとも言われ、江戸時代末期から明治中期にかけて、吉田芝渓(しけい)、木暮足翁(そくおう)、高橋蘭斎(らんさい)、堀口藍園(らんえん)などが私塾を開いて「渋川郷学(ごうがく)」を確立しました。写真は、JR渋川駅前にある石碑で「この地の人はせまい所では人に道を譲る しかし大道では決して人後に落ちることを欲しない ある時代のこの国の良さを渋川の人が受け継いでいるのは郷儒堀口藍園翁の感化による所が大きいと思われる」と刻まれています。

 

 

 

 

 「金井宿」は、北上する三国街道を遮るように流れる吾妻川の手前に位置し、街道沿いに長さ約500mに亘って計画的に開かれた宿場で、渋川宿と同様に上之町、中之町、下之町の3町に宿割りされていました。写真左は、現在「金井本陣児童公園」となっている本陣跡で、吾妻川が川止めとなった際、佐渡金山へ送られる水替人足(鉱山に溜まる地下水を汲み上げる人足で、捕らわれた無宿者などが充てられた。)などを入牢させた石積みの地下牢が保存されています。

 

 

 

 金井の地はかつて「金鋳」とも言われ、その字のごとく古くから製鉄や鍛冶が行われていて、宿場の東側には9世紀後半の製鉄炉と数基の炭窯からなる「金井製鉄遺跡」(渋川市金井)があります。製鉄炉は、榛名山麓の東向き斜面の先端を切断し、その急斜面に60cm程の石垣を積み、石垣から40cmほど奥に粘土で隅丸長方形の炉が形成され、炭窯で焼いた木炭と吾妻川などで採れる砂鉄を製鉄炉に入れて銑鉄を作ったと考えられています。炉の前面には斜面を掘削して整地した作業場があり、規模の大きな製鉄集団の存在が推測されています。

 

 

 

 金井宿の先で榛名山麓を吾妻方面に向かう「日陰道」を西に分けて急坂を下ると吾妻川に突き当たり、その手前の渋川市南牧(なんもく)にかつての「杢ヶ橋(もくがばし)関所」がありました。日光例弊使道における利根川の「五料関所」(同第21回参照)などとともに重要な川の関所で、当初はその名のごとく木橋が架けられていましたが、度重なる出水により流出し、後には船橋や渡船が使われました。写真は、現存する瓦葺屋根の関所の定番役宅を川側から写したところですが、前方に渋川駅と大前駅(嬬恋村)を結ぶJR吾妻線の列車が見えています。

 

 

 

 「北牧(きたもく)宿」は、関所を通過して吾妻川を渡った対岸の渋川市北牧にあり、前後に川と山が迫る狭隘な地形のため、宿場は鉤(かぎ)の手状に「柴宿」「古宿」「新田宿」「中宿」「道場宿」の5筋に分かれていました。写真は、北牧宿の中心にある「新田宿」で、中央には用水路が流れ当時の面影を残しています。北牧宿を出ると中山峠に向かう坂道が始まり、その途中に「横堀宿」(同第42回参照)がありました。

 

 

 1783年の浅間山の大噴火は土石なだれとなって吾妻川に達し、やがて泥流となって下流の村々を襲い、川沿いの北牧宿は壊滅的な被害を受けました。北牧宿を横切る国道353号沿いには、泥流から逃れるために登った人を救ったと伝わる樹齢4百年の「人助けの榧(かや)」があります。写真は、北牧宿から吾妻川を遡った渋川市川島の上越新幹線の高架下にある「金島の浅間石」で、周囲43mもある大石が泥流とともに流されてきたものです。

 

 

 (参考図書等:「まんが 渋川の歴史」(渋川市)、「三国街道を歩く」(上毛新聞社)、「上州の旧街道いま・昔」(山内種俊著)、「群馬県の歴史散歩」(山川出版社)、観光パンフレット、現地の説明板等)