受験生のために

大学で歴史を学ぶ意味

(人文社会科学群 人間文化学科)

 

1.はじめに

受験生の皆さんの中には、中学や高校の授業で人名・事件・年号・著作などの固有名詞を、しばしば強引な詰め込み方式に暗記することが求められたために、歴史嫌いになってしまった人がいるかもしれません。しかし、大学で歴史を学ぶという行為は、決して暗記科目のような特質を伴うだけものではありません。それは、もっと楽しい営みなのです。強制的に覚えることは、歴史研究の出発点の一つではあっても、その最終目標ではありません。確かに過去の出来事に関する知識を蓄積することは、大切です。そして、もしそれがなければ、自己の研究を深めることはできません。しかし、それだけでは不十分です。その際には自分が興味を持ったところからテーマを選び、その周辺を深く掘り下げることが重要なのです。

          

 

2.歴史とは現在と過去の対話

ところで、歴史好きな人は現在よりも過去志向だと言われますが、そこには大きな誤解が含まれています。概説的な歴史の知識が不足している場合には、現代社会の本質を知るための大きなハンディキャップを背負っているといっても過言ではありません。大学生の中には、高校までの歴史の授業の内容をほとんど忘れてしまっている、あるいは間違った認識で覚えている人を多く見かけます。例えば、ある人は「イスラム教が腐敗したから、キリスト教が成立した」と述べました。この見方に従えば、600年ほど歴史が逆転してしまいます。そのような理解をしている人には、かつて古代末期にエジプトや小アジアではキリスト教の中心地があったことなどは想像もできないでしょう。キリスト教の中にある修道院文化は、実はエジプトから生まれたものです。古代キリスト教の最大の思想家であるアウグスティヌスの出身地は、現在ではイスラム教圏である北アフリカのタガステです。また、イスラム教がユダヤ教やキリスト教から影響を受けて成立し、その信者を啓典の民として尊重してきたことは、看過できない重要な事実です。

その他に、もっと驚きを覚えた例もありました。「なぜ日露戦争の時に日本海軍は、潜水艦や空母を使用しなかったのか。そうすれば、もっと容易にバルチック艦隊を撃破できたであろう」と真剣に議論していた学生がいたのです。この発言には、過去をそれ自体として見る分析能力とその時代の歴史感覚が欠如しているのです。すなわち、現代の価値観で過去を裁いてしまっているのです。防衛大学校で戦史を学ぶ際には、ライト兄弟がいつ飛行実験に成功したのかなどの一般的な歴史の流れを知っていることは大切なのです。

そして第三の例としては、現在のイタリア・スペイン・フランスなどで支配的になっているキリスト教の宗派は、プロテスタントであると思っている人がいました。この人には、マックス・ヴェーバー著『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』などは理解できない難解な書物となるだけではなく、今日のヨーロッパ文化の根源的な側面の一つを見過ごすことになるでしょう。つまり彼は、宗教がヨーロッパ社会にどのように根付き、そして多くの社会的な変化をもたらしてきたかという重要な問題を正しく把握できないのです。そのような人には、ヨーロッパの近代化や資本主義社会の本質を理解することは困難でありましょう。

     

このような例を挙げればきりがないのですが、過去を正しく理解しない場合には、現代に関する認識もしばしば歪んだものになってしまいます。歴史の知識がすぐに役に立たない無用の長物だとは思わず、それを整理して理解していることは、教養として意味があるだけではなく、人びとの心を豊かにし、現実に対する視野を広げます。歴史に関する概説的な知識は、学生時代の学期末試験や入学試験で良い成績をとるためだけにあるのではなく、自己の属する社会や自分自身を深く知るための大切な役割を持っているのです。E.H.カーという歴史家は、「歴史は現在と過去との対話である」と述べています。この言葉の意味は、実に深く難しいのですが、現在というものの意味は、孤立した現在においてではなく、過去との関係を通じて明らかになるものであることは確かです。

 

 

3.過去の重層的な蓄積としての現在

現在は、過去の出来事の重層的な積み重ねでできあがっています。歴史学において、まず客観的な史実性というものが問われるのです。過去の事実を正しく理解していない人は、現在の事柄に対しても盲目になりがちです。例えば、今日ユダヤ人とイスラム教徒がなぜパレスチナをめぐって激しく対立しているのかを知るためには、シオニズムという思想やその背景となった古代イスラエルの歴史を把握する必要があります。ダヴィデ王やソロモン王の時代にユダヤ人が繁栄した王国を築き、その後彼らが古代ローマ帝国と戦って敗れ、パレスチナ地方から離散せざるをえなかったという歴史を知らずに、シオニズムの理解はできません。なぜユダヤ人たちが、かつて神殿が建てられていたイェルサレムという土地に執着するのかについては、外国人であるわれわれには容易には想像できません。さらに、なぜそのイェルサレムが、ユダヤ人だけではなく、キリスト教徒やイスラム教徒にとっても重要な聖地であるのかという問題については、この三つの宗教の成立過程や相互関係を知らずして正しく考察することはできません。聖地イェルサレムをめぐって三つの宗教が争ってきた歴史は、長く重く、そして現在にまでも貫いているのです。宗教における思想的相違は、しばしばその歴史と関わっています。歴史を学ぶことなしに、宗教紛争を理解することは困難です。

また歴史家の営みは、現在の社会問題に無関心になって、ただひたすら過去の世界の中に埋没することではありません。そのような人は、歴史愛好家ではあっても歴史研究者ではありません。マルク・ブロックという歴史家は、「現在から出発して過去を理解しなければならず、過去の光に照らして現在を理解しなければならない」と述べました。つまりブロックは歴史学を現在から過去へ、そしてまた過去から現在への絶えざる往復と考え、その際に歴史家による問いかけの大切さを説いたのです。

        

 

 

4.おわりに

このように歴史研究においては、問いかけが大切です。自己の関心から生まれた問題設定に基づいて掘り下げることが、学術的な研究の進展に繋がります。防衛大学校人間文化学科では、ゼミナールなどの少人数教育を通して学生の問題関心に従って積極的に歴史を学ぶ体制が整っています。そして、卒業論文のテーマとして日本・アジア・ヨーロッパなどの歴史を選ぶことが可能です。教師が講義した知識を受動的に覚えることが、本来の歴史教育の中心ではなく、自己追求のための能動的な学問としての性格を持っているのです。学生が知的な刺激を受けて、自由意志で自己の関心を広げることが大切なのです。大学での歴史の勉強を通して、少しでも多くの歴史好きな学生が新たに誕生することを心から願っています。

         

 

5.参考図書

最後に大学で歴史を学ぶ際に大切な入門書的な参考文献や古典的名著を紹介します。興味のある方は、是非読んでみてください。

           

@  増田四郎著『ヨーロッパとは何か』(岩波新書、1967年)

A  E.H.カー著/清水幾太郎訳『歴史とは何か』(岩波新書、1962年)

B  マルク・ブロック著/松村剛訳『新版 歴史のための弁明: 歴史家の仕事』(岩波書店、2004年)

C  阿部謹也著『刑吏の社会史:中世ヨーロッパの庶民生活』(中公新書、1978年)

D  ヤーコプ・ブルクハルト著/新井靖一訳『イタリア・ルネサンスの文化』(筑摩書房、2007年)

E  フェルナン・ブローデル著/浜名優美訳『地中海 全10巻』(藤原書店、1991-99年)

F  マックス・ヴェーバー著/尾高邦雄訳『職業としての学問』(岩波書店、1993年)

G  ヨハン・ホイジンガ著/里見元一郎訳『文化史の課題』(東海大学出版会、1978年)

H  アーノルド・ジョーゼフ・トインビー著/松本重治訳『歴史の教訓』(岩波書店、1984年)

I  ハインリヒ・シュリーマン著/村田数之亮訳『古代への情熱』(岩波書店、1976年)

J  マックス・ヴェーバー著/大塚久雄訳『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(岩波書店、1991年)

K  レオポルト・フォン・ランケ著/鈴木成高・相原信作訳『世界史概観』(岩波書店、1961年)

 

(文責:人間文化学科 准教授 野々瀬 浩司)