• 行進曲「軍艦」について

     


    「海軍儀制曲総譜」より

     

    軍   艦

    作詞  鳥山    

    作曲  瀬戸口藤吉

      (まも)るも()むるも鋼鐵(くろがね)の          (うか)べる(しろ)ぞたのみなる

    (うか)べるその(しろ)()(もと)の          ()(くに)四方(よも)(まも)るべし

    まがねのその(ふね)()(もと)に        (あだ)なす(くに)()めよかし

      いはきの(けぶ)(り )わたつみの        (たつ)かとばかり(なび)くなり

    ()()うつひびきは(いかづち)の        (こゑ)かとばかりどよむなり

    (ばん)()()(たう)をのりこえて        ()(くに)のひかり輝か(かがや )

     

     

    海行かば

                    大 伴 氏 言 立

                    作曲 東儀季芳

    (うみ)()かばみづくかばね          (やま)()かば(くさ)むすかばね

    大君(おほぎみ)()にこそ()なめ          のどには()なじ

     

    〔注:行進曲「軍艦」のトリオ(中間部)に挿入されている歌詞〕

     

     

    日本国内においてのみですが、「世界三大行進曲」「世界の名曲」と言われている行進曲「軍艦」を〝日本人なら誰でも知っている!〟と言っても間違いないでしょう。しかし、意外と正確なことは知られていませんでした。

    「軍艦」には、行進曲「軍艦」、「軍艦行進曲」、「軍艦マーチ」と三種類の題名が使われています。海軍軍楽隊の演奏会のプログラム、レコードには、行進曲「軍艦」が圧倒的に多いことから、これが正式名称と言えましょう。一般的には「軍艦マーチ」で親しまれているようです。海上自衛隊儀礼曲では、制定時から「軍艦行進曲」となっていました。

    「軍艦」を英語表記で「Warship」としているものもありますが、帝国海軍では一貫して「Man-of-war」を使っていました。この単語は、かなりの英語の達人でも知らない古語のようです。

     

    「軍艦」の作者

     行進曲「軍艦」は、鳥山(ひら)(く )詞、瀬戸口藤吉作曲の海軍軍歌「軍艦」に、大伴氏(こと)(だて)(とう)()(すえ)(よし)作曲の「海行かば」をトリオ(中間部)として、行進曲にしたものです。

    明治26年8月18日発行の伊澤修二編輯『小學唱歌』巻之六下には、鳥山啓作詞、山田源一郎作曲の「軍艦」が載っています。四分の三拍子の小学唱歌は、題名が「此の城」だったという説もありますが、次のように「軍艦」でした。

     

    作詞者の鳥山は、天保8年3月25日、紀州田辺(現和歌山県田辺市)に生まれました。漢学、国学、天文学、地理学、木草学、化学、博物学さらに英学まで修めた博学の士でした。大博物学者の 南方熊楠(みなかたくまぐす)が、唯一師と仰いだのが同郷の先輩鳥山でした。

    維新後、教育界に身を投じた鳥山は、藩学校から田辺小学校、和歌山師範学校、和歌山中学校を経て、明治20年からは東京の華族女学校教授を務めました。大正3年2月28日に逝去、享年78歳でした。

    海軍軍楽師(准士官)の瀬戸口が、鳥山の「軍艦」に作曲したのは、『小學唱歌』発行の4年後のことでした。

    瀬戸口は、明治元年5月10日、薩摩国鹿児島郡小川町(現鹿児島県垂水市)に、父覚兵衛の次男として生まれました。13歳の時、叔父の大山軍八の養子となり、横浜に移りました。大山藤吉は、15年12月23日、第二回公募軍楽生として横須賀海兵団に入団し、クラリネットを担当しました。

    明治27年7月に最若年で軍楽師に昇進し、33年9月には瀬戸口姓に戻り、36年9月に軍楽長に昇進しました。

    日露戦争の日本海海戦直後の明治38年6月、旗艦「三笠」に乗り組みました。9月11日の佐世保に於ける同艦の爆発事故の際は、上陸していて難を免れるという強運の持主でした。この事故では、10名の軍楽隊員も殉職しています。

    明治40年の「筑波」による欧米訪問、44年の「鞍馬」による英国王ジョージ五世戴冠式記念観艦式に参加、41年5月から大正6年10月まで日比谷公園奏楽の指揮をするなど、表舞台での活躍が目立っています。

    大正6年11月4日には、東京・帝国劇場において「瀬戸口藤吉告別音樂大演奏會」が催されました。同月15日、定年満期で予備役に編入後も各方面で指導を行っていました。昭和12年には「愛国行進曲」の公募に一等で入選し、大きな話題となりました。

    大東亜戦争開戦一カ月前の昭和16年11月8日に逝去、享年74歳でした。同月22日に日比谷公園大音楽堂において、追悼献楽式が盛大に実施されました。

     

    「軍艦」の用途について

    海上自衛隊は、昭和36年1月に儀礼曲10曲を制定しました。この中には帝国海軍の儀制曲(大正元年8月制定)10曲のうち7曲が含まれています。

    その中の「軍艦」の用途を比べてみましょう。

    海軍儀制曲

    第十號  軍艦  進水式ニ於テ船體滑走又ハ進行ヲ始ムルトキ其ノ他觀兵式(分列式、閲兵式)等

    海上自衛隊儀礼曲

    軍艦行進曲(1)観閲式における観閲行進の場合

    (2)自衛艦旗授与式における乗組員乗艦の場合

    (3)自衛艦命名式における進水の場合

    (4)その他必要と認められる場合

    ほぼ同じような内容ですが(2)のように、新たに加えられたものもあります。双方を比較して、海上自衛隊の用途について述べてみます。

    ()観閲式における観閲行進の場合

    海上自衛隊の部隊や学校などが、記念行事で観閲式を行う場合に演奏されます。

    海軍における観兵式は、海兵団などで実施されたのでしょうが、分列式とは分列行進、閲兵式は現在の巡閲に相当し、終始一貫「軍艦」を演奏していたようです。

    ()自衛艦旗授与式における乗組員乗艦の場合

    自衛艦旗授与式において儀式歌「海のさきもり」の演奏で、内閣総理大臣から授与された自衛艦旗が、艦長(艇長)から副長に手渡され、その直後の乗組員乗艦の際に演奏します。このような習慣は、帝国海軍にはありませんでした。

    ()自衛艦命名式における進水の場合

    造船所において建造中の自衛艦に命名した後に行われるのが進水式です。自衛艦命名式が終り、静粛の中で進水準備が進められ、細い支綱のみとなります。

    音楽隊は艦首近くに位置し、支綱が切断され、くす玉が割れ、新造艦が動き始めた瞬間に「軍艦」の演奏を開始します。艦首にぶつかって割れたシャンパンの、ほのかな香りを嗅ぐことができるのが、音楽隊員のささやかな役得です。

    滑走する速度がかなり速いため、通常の行進曲のテンポよりも早めに演奏しても、前奏から「軍艦」の歌が一回終って演奏を止める頃には、船体は既に水上に浮かんでいて、港内在泊の船舶が祝福の汽笛を吹鳴しています。

    帝国海軍でも、ほぼ同じように演奏されていたようです。

    ()その他必要と認められる場合

    この場合に該当するのは、音楽隊が「軍艦」を演奏する次のような時と考えられます。

      教育隊、学校等の修業式の見送りの場合

      艦艇の出入港の歓送迎の場合(交歓演奏を含む)

      広報行事で市中行進の場合(複数の行進曲の場合もある)

      演奏会(アンコールとして演奏することが多い)

    どれも、演奏するのが当然だと思っていて〝必要と認められる場合〟として、特に指示されて演奏した記憶はありません。

     

    行進曲の初演

    明治30年、瀬戸口が作曲した軍歌「軍艦」が、行進曲として〝明治33年4月30日、神戸沖の観艦式場へ向かう常備艦隊旗艦「富士」乗組み軍楽隊によって初演された〟と一般には流布されていました。これは音楽評論家の堀内敬三が、海軍軍楽隊の古老から聞いた話を根拠としていました。

    通常、楽曲の初演は、演奏会などの公開の場所で演奏する場合を言い、観艦式場に向う艦上は、場所としては最適ですが〝果たしてそのような時に、意識して初演したのだろうか?〟という疑問がありました。

    この観艦式の記録が、防衛研究所図書館所蔵『明治三十三年公文備考』の中にあり、観艦式式場図その他の資料から、初演の時期又は場所には根拠がないことが判明しました。

    観艦式直前、旗艦「富士」に伝染病患者が発生し、御召艦(天皇の乗艦)は急遽「淺間」に変更されました。観艦式前日「富士」は、受閲艦艇第一列の三番艦の位置に錨泊していて、当日は航行していません。式場図には、鉛筆で書き直した跡が鮮明に残されています。

    旗艦の「富士」には、当然軍楽隊が乗り組んでいたはずですが、御召艦に移すわけにもいかず、急遽横須賀から一隊を呼び寄せることになりました。常備艦隊と横須賀鎮守府の参謀間の、かなり切迫したやりとりの電報も残されています。

    以上のことから、「富士」艦上であれば別の日であり、日にちが正しければ「淺間」ということになります。いずれにしても今までの定説は誤りでした。

     

    世界における行進曲「軍艦」

    練習艦隊訪問国の軍楽隊が、「軍艦」を演奏して迎えてくれることがよくあります。しかし、その楽譜のほとんどは、海上自衛隊が贈呈したもので、海軍軍楽隊は外国の軍楽隊に楽譜を贈呈していなかったようです。

    昭和58年5月30日の朝刊各紙は、アメリカのウイリアムズバーグで開催された第九回先進国首脳会議(サミット)で、中曾根康弘総理大臣(元海軍主計少佐)に対し、アメリカ陸軍軍楽隊が「軍艦」を演奏したことを、さも一大事件ででもあるかのように報道しました。

    〝外国人記者団にどよめきが起きた!〟と報じた新聞もありましたが、日本人記者が大騒ぎしただけのことで、外国人記者団は〝なにごとか?〟と訝しがったようです。

    この時の楽譜は、昭和50年度の練習艦隊音楽隊がワシントンの海軍軍楽隊を訪問した際に寄贈したものを、陸軍が借りてきて演奏したものでした。日本で問題になったことから陸軍軍楽隊にも非難が行ったようです。

    この騒動は、海上自衛隊幹部学校に留学したことのあるジェームス・アワー海軍中佐が〝「軍艦」は米国でいえば「錨を上げて」と同じで、この曲の演奏が海軍に奉職した首相に対して非礼でも無神経でもないはずである〟とワシントン・ポストに投稿し沈静しました。

     練習艦隊がタイ国の首都バンコクに入港する際、同国海軍軍楽隊は「軍艦」を演奏して歓迎します。その使用楽譜は、東京音楽隊にもない戦前のものです。これは、昭和18年に宣撫工作の一環として出版された「南方向吹奏楽譜」81曲のうち、同軍楽隊に保存されていた23曲の中の一曲です。

     平成25年9月、練習艦隊がミャンマー連邦共和国のヤンゴンを初訪問した際、同国海軍軍楽隊が「軍艦」とソックリの曲を演奏して、海上自衛隊員がビックリしたことがありました。

     

     

     これは「ミャンマー・ドゥー・イェ・タッマドウ(Myanmar Doe Ye Tatmadaw)」というミャンマー国軍の公式軍歌で、毎朝陸軍の放送で使われていたことから、ミャンマー人なら誰でも知っている曲です。

     大東亜戦争末期、イギリスの植民地だったビルマ(ミャンマーの旧国名)に、国軍を作るために日本で教育を受けたのがスーチー女史の父親、アウンサン将軍以下30名でした。その「三十人志士」を中心に創設されたのがビルマ軍でした。

    日本軍によって行われた教育はすべて日本語でした。その際に、多くの日本の軍歌も覚えました。中でも一番気に入ったのが「軍艦」のメロディーだったのでしょう。ミャンマー語の歌詞を付け、未だに歌われているのです。

    ミャンマーの首都ネピドーには、世界最大規模の敷地を誇る軍事博物館があります。この館内に流れるBGMは、終始一貫「軍艦」と「愛馬進軍歌」の旋律です。両曲共にミャンマーの歌として、完全に定着しています。

     

    行進曲「軍艦」は「日本の名曲」

    「軍艦」の解説に〝スーザの「星条旗よ永遠なれ」、タイケの「旧友」と並んで「世界三大行進曲」の一つと言われている〟とよく書かれています。

    しかし、世界中の吹奏楽関係者、軍楽隊長、音楽学者などが集まって〝「世界三大行進曲」を決めよう!〟と会議を開いたという記録は、どこにもありません。

    仮に会議があったとしても、アメリカ、ドイツ、日本の行進曲が選ばれたとあっては、フランス、イギリス、オーストリア、イタリアなどは承知しなかったでしょう。

    「世界の名曲」という言葉が、「軍艦」以外の曲で使われていることはまずありません。ベートーベンの「運命交響曲」でも、「世界の名曲」という呼び方はしていません。

    国歌「君が代」が〝世界の国歌コンクールにおいて第一位に選ばれた!〟という風説が、(まこと)しやかに伝えられています。しかし、その根拠を長いこと探しましたが、未だに確認しておりません。

    「世界三大行進曲」「世界の名曲」は、前記の「君が代」と同じように、日本で言っているだけのことで、世界の音楽界は認知していません。

    ただし行進曲「軍艦」は、「世界の名曲」ではなくとも「日本の名曲」であることは、紛れもない事実であることを、自信と誇りを持って断言いたします。

     

    行進曲「軍艦」の楽譜

     行進曲「軍艦」は、当初B♭(♭二つ)で作曲されていました。明治36年に録音された米国コロムビアのSP盤は、この調子で録音されています。しかし、これでは高すぎて歌えないため四度下げたのが、現在の調子です。

     ここに添付している楽譜は、東京音楽隊が保有する「海軍儀制曲總譜」記載の楽譜を基に、現在の編成に合わせて編曲したものです。

     海上自衛隊音楽隊の行進曲「軍艦」は、この楽譜を使用して演奏しています。

    文:谷村政次郎(第11代東京音楽隊長)

     

     

     

    東京音楽隊の演奏と使用楽譜をダウンロードできます。

    ご自由にご利用ください。

     

     

    行進曲「軍艦」-演奏-(指揮:2等海佐 樋口好雄)

    歌唱付き(歌唱:1等海曹 川上良司)

    吹奏

     

    行進曲「軍艦」-楽譜-

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    谷村政次郎(たにむら・まさじろう)
    昭和13年8月10日 東京都渋谷区生まれ
    昭和32年8月 海上自衛隊東京音楽隊に入隊
    昭和48年7月 3等海尉(第6期部内幹部候補生)
    練習艦隊、佐世保、横須賀の音楽隊長を経て平成3年12月第11代東京音楽隊長に就任
    平成6年8月 2等海佐で退官
      退官後は、吹奏楽・軍楽隊等に関して、レコード・CDの解説、軍事関係誌、吹奏楽誌等に執筆。戦前の吹奏楽曲の楽譜を発掘し録音。ニューグローブ『世界音楽大事典』(講談社)の「国歌」の項を担当。NHKのスペシャルドラマ「坂の上の雲」の軍楽隊関係を考証。
    著書 『行進曲「軍艦」百年の航跡ー日本吹奏楽史に輝く「軍艦マーチ」の真実を求めてー』(大村書店)、『日比谷公園音楽堂のプログラムー日本吹奏楽史に輝く軍楽隊の記録ー』(つくばね舎)、『海の軍歌と禮式曲―帝國海軍の音樂遺産と海上自衛隊―』(出版協同社)

     

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