高杉晋作終焉の地

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大蔵神社

大蔵神社
 寿永四年(一一八四年)、平家追悼の任を受けた源義経は、壇ノ浦の合戦に望んで、己が武運の守護と頼む富士浅間の大神の神助を請い、敵の陣小戸を隔て、呎尺の間にある有明山の山麓に小松(富士川の合戦以来担いできた「富士の小松」)を植え、篝火を焚き、七日七夜の斎戒を修め、戦捷祈願をした。その後、神前に捧げた桑の弓を以て、開戦矢文を対岸の平家の布陣に射込んだ。平家統師の和盛はこれに驚き壇ノ浦に軍船を進めた。壇ノ浦には範頼の部隊が待機しており、義経軍との挟み撃ちに合い、敢えなく平家は滅亡したと伝えられる。翌文治二年(一一八五)に、付近の漁民が神司を祀ったのが、大歳神社の起源と伝われる。武運長久の神としてのご神威は年を追って光輝き文久三年(一八六三)騎兵隊の発足に際し、高杉晋作は旗揚げの旗を大歳神社に奉納、また白石正一郎は攘夷必勝を祈請して大鳥居を奉納した。明示七年(一八七四)、村社に列せられる。昭和一五年(一九四〇)、関門鉄道トンネル工事の際、社地は鉄道線路敷地に接収され現在の小山に遷座された。
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大蔵神社
七卿落ちの画碑  長い石段を登りつめた境内には、めずらしい「七卿落ち」の画碑があります。「七卿落ち」とは、文久3年(1863)8月18日、京都朝廷で起こったクーデターにより、反幕派の7人の公卿が、京都から追放され長州に下った事件をいいます。
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境内前の大鳥居  境内前の大鳥居は、白石正一郎が寄進したもので、その大きさに当時の豪商の経済力がうかがえます。
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境内前の大鳥居