白崎神社
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白崎神社

白崎神社
祭神 綿津見大神
「白崎大明神縁起」より
 萩毛利藩の重役、毛利就方(阿川毛利藩祖)は、厚狭、美祢の代官横見弥一左衛門慰就尹を呼び「宇津井潟に新田を墾けば自然五穀成熟せんよろしく努力すべし」と干拓工事を命じ、工事は寛文五年(一六六五年)に着手、途中度々天災事変に遭遇したため、小祠を建立、龍神を祀り工事の安泰を祈願し、寛文八年(一六六八年)に無事潮止め工事が完成した。
 王喜の地名の由来羽、この龍神(龍王)が歓喜したことによるという。
 白砂青松であったこの浜も近年松喰い虫に犯され被害も甚大で平成元年(一九八九年)防風保安林に指定された。
平成三年(一九九一年)台風の被害で神殿・鳥居が崩壊
平成五年(一九九三年)神殿改築、鳥居再建
平成五年(一九九三年)御鎮座三ニ五年大祭斎行
  社紋は萩毛利家の紋である。
              王喜地区快適なまちづくり推進事業実行委員会

白崎の松原

白崎の松原
 「松屋風土記」に「当村往古は待江といえり、昔神功皇后三韓を征せんと数多の軍船を師ひ、此処の白崎といへる松原に屯し吉凶を卜ひ江に待玉ひしを人呼んで地名とせしなり」と記述されている。
 西暦二世紀の終頃神功皇后の三韓征討の故事以来待江と云われた松屋の地は、波穏やかな宇津井潟の入口を扼す海の要衝の地で、この松屋の西南端より西に数百米海中に突出た岬状の白崎の松原は、白砂青松の景勝の地で、ここを中心に松屋海岸に一時期数多の軍船が屯し軍議が謀られた事が知られる。
 また、当時この松原に宮が置かれたと云われている。
 江戸時代の寛文八年(一六六八年)毛利本藩により宇津井立石と白崎浜先端を結ぶ堤防を樋門の築造により王喜開作が築立され、宇津井潟は消滅し現在の平野と成った。当時の毛利藩の執権毛利就方により開作の守護神白崎神社が創建され、以来松原は神域となった。
 明治、大正、昭和初期には潮湯も営まれ、白砂青松の白崎浜一帯は近郷地区民の憩の場として広く親しまれた。
 昭和十七年(一九四二年)航空基地の拡張のため松原は半ば接収され、海岸保全事業で砂浜と松原の間に海岸堤防が設けられ、また松食虫の被害を受け関係者の尽力にも関わらず総ての老松は枯れ果てたが、地区関係者の長い間の努力に依り次第に改善されている。
               平成十年十二月吉日(一九九八)
            王喜地区快適なまちづくり推進事業実行委員会