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功山寺

 功山寺
 功山寺は、嘉暦2年(1327年)、伊勢国(三重県)の虚庵玄寂禅師によって開かれた臨済宗の寺で、山号を金山、寺号を長福寺と称していました。

 足利尊氏や長門守護職厚東氏、大内氏の庇護を受け武門の信仰を集めていました。慶長7年(1602年)長府藩組毛利秀元が寺の大改修を行い、宗派を曹洞宗に改めました。
 慶安3年(1650年)秀元公の霊牌を祀り、公の法名「智門寺殿功山玄誉大居士」にちなみ功山寺と改称し、以来毛利家の菩提寺となりました。

功山寺仏殿
 功山寺仏殿

 寺伝に嘉暦2年(1327)創建とあるが、仏殿の南側来迎柱の上部に「此堂元応2年(1320)卯月5日柱立」の墨書があり、鎌倉時代建立の代表的な木造の禅宗様建築で、典型的な唐様仏殿としては我国最古のものである。

二重屋根入母屋造りの皮桧葺、扇?に花頭窓、柱は上下部を細めた粽型で礎石と柱との間に礎盤を入れ、内陣の天井は鏡天井で石楠花を画き、外陣は化粧屋根裏、床は四半瓦屋根で建物は一切彩色せず、鎌倉の円覚寺舎利殿と共に仏殿建築の代表と云われる。
功山寺山門  功山寺山門
山門は、二重櫓造りで、安永2年(1773年)長府藩主10代毛利匡芳の命を受けて建立された。
高杉晋作回天義挙銅像

 高杉晋作回天義挙銅像
 福岡に亡命していた晋作は、死を覚悟して帰国し、藩論回復のため、遊撃隊士などわずか80人ばかりの同士をひきいて俗論党打倒をさけびクーデターの兵を挙げた。その決起の地が功山寺である。当時、京都から落ちのびてきた討幕派の公卿7人のうち三条実美はじめ5人が功山寺にひそんでいた。晋作は私兵でない証とするため、五卿にあいさつしたのちに挙兵したのだった。やがて奇兵隊のほか諸隊も立ち上がって戦列に加わり、農民・商人など藩内の民衆も決起軍を応援して武士団の俗論軍を圧倒、ついに討幕の藩論を確定させた。

毛利家墓所  毛利家墓所
 墓所の中央は長府藩祖秀元公、周辺は歴代藩主、後方に幕末の藩主一族、左のドーム状の墓所は明治時代以降の一族の墓所。

 毛利家墓所に向かって左手には、薩長同盟締結後、寺田屋で坂本竜馬とともに襲われ負傷した三吉慎蔵の墓がある。
毛利家墓所
大内義長の墓


 大内義長の墓

 大内義隆はその重臣陶晴賢の叛にあい深川大寧寺に自刃した。晴賢は義隆の甥義長を豊後の大友氏から迎えて大内氏を嗣がせた。弘治元年(一五五五)毛利元就は晴賢を厳島に敗り同3年義長の山口城をおとしいれた。
 義長は山口を逃れて下関の勝山城によって九州一族の援軍をまった。しかし、毛利勢の急襲で長福時(功山寺)の仏殿に入って自刃した。山口に二百年も栄えた大内氏は、これで全く断絶した。
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長府博物館
 長府博物館
 毛利家史料、乃木希典史料など史料が保管されている。
また、覚苑寺の乃木銅像の原型が展示されている。
博物館本館は旧長門尊攘堂の建物を活用したもので、尊攘堂は吉田松陰・品川弥二郎の遺志を受け継いだ長府在住の桂弥一が、昭和8年に維新で活躍した勤王の士を顕彰し、尊王精神の高揚を図るために創設した。
万骨塔
万骨塔
昭和八年(一九三三)十月、当地に「長門尊攘堂」を創設した桂弥一が、日本各地から石を取り寄せて建設した慰霊塔で、有名・無名の勤王の士を、当時の府県毎に祀っていた。
なお、名称は「一将功成って万骨枯る」由来する。
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