乃木神社
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覚苑寺
覚苑寺

 元禄11年(1698)に長府毛利藩主3代綱元の命で建立した黄檗宗の寺院で、綱元ほか6代匡広、13代元周の墓碑がある。
 この本堂は、明の黄檗流の建築様式を伝えている。


長門鋳銭所跡  
 長門鋳銭所跡(国指定史跡)

 奈良・平安時代に長門鋳銭司という機関が置かれ、銭貨の鋳造が行われた跡である。
 現在の覚苑寺一帯が史跡として国の指定を受けている。
 遺跡の発見は、江戸時代の寛永年間にまで遡り、現在までに数度にわたる発掘が行われ、奈良時代の「和同開珎」や鋳型、坩堝、鞴の羽口などの銭貨鋳造用具のほか、銭貨鋳造に伴う副産物である銅滓党が多く出土している。長門鋳銭所は天長2年(825年)には廃され、周防国(山口市鋳銭司)に移ったとされている。
乃木希典像

乃木希典像

明治40年1月、将軍長府訪問の際に豊浦小学校池畔で撮影。この写真を元に昭和14年、将軍の甥にあたる長谷川栄作により銅像が作成され覚苑寺境内に建立された。しかし昭和18年、戦時のため供出。昭和33年、再建される。
銅像原型は現在長府博物館に展示されている。


乃木希典像台座前面
乃木希典像台座前面

士(もののふ)は 玉も黄金(こがね)も なにかせむ いのちにかへて 名こそをしけれ


乃木希典像台座後面
乃木希典像台座後面


この像は清く明るく正しきもの々象徴である。「乃木を生んだ日本だから日本人は皆立派であろう」「日本に乃木のような大将が生きてゐたならば此の戦争は起こらなかったであろう」とは昭和二十年第二次世界大戦が終りその処理に当った連合軍司令官マックアーサー元帥の回想であった。この言葉は真に平和を祈願せられた乃木さんの神髄に觸れたものとして我々は深い感銘に打たれたのである。まことに乃木さんは世界の隅々にまで生きて居られる。よろめきの我が心に、けうも、あすもこの像は無限の教えをたまうであろう。
 昭和七年九月進藤瑞堂一人一銭托鉢によって建立発願 仝十四年四月竣工、 仝十八年戦局の苛烈に伴い供出 銅像原型は将軍令甥長谷川栄作氏の作にしてこの原型は 戦災を免れたので遺族の好意によって再度使用した。
 昭和三十三年十一月十一日再建発願人當山二十五代住持浜田琢堂
       再建委員会代表   松村 登


狩野芳崖像

狩野芳崖(かのうほうがい)像 1828〜88 

 明治時代前期の日本画家。長門国長府藩の御用絵師,諸葛晴皐の子として生まれ,19歳のとき,江戸に出て狩野勝川のもとに入門して画事を学んだ。
 彼の作品としては『不動明王図』と絶筆となった『悲母観音像』(ともに,東京芸術大学蔵)が代表的なものである。