海上自衛隊幹部学校

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 戦略研究会

 「明治41年のFDO」

(コラム118 2018/08/27)

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   海幹校戦略研究(論文集)2016年7月号にFDO(柔軟抑止選択肢:Flexible Deterrent Options)をテーマとして扱った論文がある1。その概念2は最近整理されたものであるが、行為自体は意識・無意識に関わらず、古くから行われていた3
   そこで、今回のコラムでは110年前に日本がアメリカに対して行ったFDOを“肩の凝らない話”として取り上げ、それにまつわる海幹校所蔵の歴史資料の紹介をしたい。

   写真は、日章旗と星条旗がデザインされた記念徽章(バッジ)と木蓋の裏に記された徽章の由来である。2012(平成24)年に米海軍大学校長から海自OB香田洋二氏へ贈られたものだが、香田氏は徽章の歴史的価値を考慮すると個人が所有するにはふさわしくないとして海幹校へ寄贈された。
   由来には”PRESENTED by THE NAVY OF JAPAN. OCTOBER, 1908. -MADE BY MIYAMOTO-SYOKO. GINZA, TOKYO.”との英字がある。「宮本商行」とは銀製品を商う宮内庁御用達の老舗で、現在も銀座に本店を構えている。
   ここまでの紹介で、本徽章の正体と目的がわかった人は、かなりの歴史通であろう。
   徽章が作製されたのは由来にあるように1908(明治41)年、日露戦争の終結から3年後のことで、この年、日本は再び国家存亡の危機を迎えた。いわゆる「白色艦隊」の来航である4
   日露戦争後、日米関係は悪化し始める。主な理由は、「日露戦争に勝利した日本は、満州での利権や太平洋での影響力をめぐって、アメリカと対立5」しており、「また西海岸での日本人移民の急増が排日の気運を高め6」ていたところにある。
   そして、「欧米のメディアを中心に両国関係の危機説が囁かれて7」いたことや「1907年6月7日の米閣議では対日戦は不可避との雰囲気となった8」、「日米開戦を避けるためには、米国は巨大な艦隊を保有していて、いつでもこれを使用できる、ということを日本に知らせることだ9」という世論を背景に、セオドア・ルーズベルト大統領は、戦艦16隻を主力とする大西洋艦隊を世界一周の航海へ派遣することを決定する。「特に日本にアメリカの海軍力を誇示し、圧力をかけることが重要な目的10」であった。
   来航する米艦艇は戦時の「灰色」ではなく、目立つ「白色」に塗られていたため、日本では「白色艦隊」、もしくはペリーの黒船に対比して「白船艦隊」と呼んだ。
   1907(明治40)年12月、バージニア州ハンプトン・ローズを出港した白色艦隊は大西洋を南下し、チリ海軍艦艇の先導でマゼラン海峡を通過、太平洋を北上してサンフランシスコに至る11
   白色艦隊が「ハンプトン・ローズを出港し太平洋へと動き出すと、日米の衝突は最早避けられなくなり日本の公債が暴落したとか、日米開戦の場合は軍資金を提供する用意があるとする日米の危機を煽るような情報が、フランスやスペインの在外公館から報告されるようになった12。」
   この危機に対し、日本政府が選択した方策は白色艦隊の歓迎であった。
   当初、太平洋を横断しようとする白色艦隊の寄港地に日本の港は含まれていなかったため、寄港するよう強く要請したのである。 「外交ルートを通じての米艦隊の日本招請に関する交渉が一段落したところで、海軍省を中心にして歓迎準備が進められ13」、「10月7日には歓迎計画の成案がなり14」、加藤友三郎海軍次官を委員長とする米国艦隊接待委員会が組織された。
   明治天皇からは「日米海軍の間に軋轢が生じないように駐日米国大使とよく協議するよう15」とのお言葉があっただけでなく、「歓迎計画の案を米艦隊がフィリピンを出港する前に同地に郵送して米側の意向を確認16」し、あわせて「高平小五郎駐米大使から米国政府にも通知17」するなど、日本側の配慮と念の入れようは相当なものであった。
   白色艦隊はサンフランシスコ出港後、ハワイ、オークランド、シドニー、メルボルン、アルバニー、マニラに寄港しつつ、1908(明治41)年10月18日、横浜沖に投錨した。
   入港当日、横浜公園での歓迎園遊会で三橋信方横浜市長は「ペリー提督が初めて来航した当時は漁村に過ぎなかった横浜は、今は帝国貿易上の首港となり、それをもたらしたのが米国である18」と、米国が横浜の開港及び発展に大きく寄与したことに最大の謝辞を送った。
   同日夜「グランド・ホテルでの市長晩餐会、続いて知事公邸で夜会19」が、翌日は「将校ら一行は新橋駅に到着、米国国歌を歌う小学生に迎えられ(中略)皇居での天皇謁見、海軍大将東郷平八郎主催園遊会(新宿御苑)、岩崎久弥主催晩餐会(深川岩崎邸)、東京市長歓迎会(上野精養軒)、東京市歓迎会(日比谷公園)20」などが催された。
   「艦隊が滞在した25日までの8日間、政府や様々な団体が歓迎行事を繰り広げ21」、「横浜と東京での歓迎ぶりは、世界周航の中で最も熱烈22」で「艦隊乗員をして悉く陶然として我友情に醉はしむる23」ほどであった。
   歓迎されたのは白色艦隊の乗員だけではなかった。同艦隊の士官の家族を日本へ呼び寄せ、「士官と同様に米艦隊の歓迎行事に招待するとともに、鉄道での移動や宿泊などにも特別な待遇24」を与えた。
   渋沢栄一などの経済人は「排日熱の盛んであった米国西海岸の実業家を米艦隊の来航時期に合わせて、東京、大阪、京都、横浜及び神戸の5商工会議所の連名で日本に招待25」して優遇した。米実業家たちは日本を離れるに際して「日本帝国人民の北米合衆国人民に対する友情行為は何等疑を挟む余地なき事26」等の決議を日米政府・経済界の関係者に送付している。
   米国艦隊とともに来日した4人の米国新聞記者に対しては、「彼らの東京訪問にあたり、新聞通信記者数十名が出迎え、東京見物・上野精養軒での午餐、紅葉館での晩餐会で歓待27」している。
   「米国ワシントン州の日本人会からは、米国内における日本に対する誤解は一掃し、対日感情が好転した28」と伝えられた。
   「米艦隊の日本での歓迎振りが伝えられた欧米諸国の反応は(中略)主要な新聞の論調は概ね好意的29」であった。
   「『ニューヨーク・タイムズ』の二十四日の社説は、日本における米艦隊歓迎について「既往及び現在における日米両国交誼の基礎は、到底従来発生し又は将来発生することあるべき紛争のために攪乱せらるゝものに非ざるを吾人並に全世界に表明した」30」と伝えた。
   しかし一方、海軍は歓迎のみを考えてはいなかった。白色艦隊の横浜入港の同日、海軍は明治41年度海軍大演習31を開始している。
   「その演習シナリオは、聯合艦隊を日本海軍の北軍と敵国海軍の南軍に擬して二分し(中略)九州東方で南軍を撃破するというものであった。(中略)南軍の行動は米艦隊が日本来航時にとった航路とほぼ一致するものであった。海軍は米艦隊の世界周航という『大演習』に対して、その来航をただ単に歓迎するだけではなく『大演習』をもって臨んだ32」のである。
   「日本がこのような態勢で米艦隊を迎えることは、日本の歓迎効果を減じ、相手側に懸念を懐かせる結果となることは十分に予期できた33」ため、大演習の実施については米側には伏せられていたものの、「米艦隊の指揮官らは大演習の大要を察知していた34」という。
   当時、セオドア・ルーズベルト米国大統領が用いた「棍棒外交35」に対し、日本も右手で握手をしながら、左手には棍棒を持ち背後に隠していたのである。
   米国防用語集は「FDOは国力の各要素-外交、情報、軍事、経済-を手段として実施されるものであるが、これら諸要素を横断的に組み合わせて実施することが最も効果的である」と解説している。国を挙げて実施された「明治41年のFDO」は、まさに-外交、情報、軍事、経済-を横断的に組み合わせ、実践された例である。
   最後に徽章の正体であるが、1911(明治44)年発刊の『米友協会会史36』によると、白色艦隊寄港時に「海軍省から艦隊将校へ贈りたるもの」と確認できる。徽章は100年の歳月を越え、米海軍との固い『絆』を有する海上自衛隊へ里帰りしたのである。

(幹部学校防衛戦略教育研究部 戦史統率研究室 高橋哲一郎)

(本コラムに示された見解は、幹部学校における研究の一環として発表する執筆者個人のものであり、防衛省、海上自衛隊の見解を表すものではありません。)

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1 石原敬浩「戦略的コミュニケーションとFDO-対外コミュニケーションにおける整合性と課題-」『海幹校戦略研究』第6巻第1号(2016年7月)
2 米国防用語集はFDOを「敵方の行動に対し、正しいシグナルを伝達し影響を与えるため、周到に検討された、抑止のための事前計画である。これは、危機発生以前に諫止(dissuade)する、あるいは危機発生時には更なる侵略を抑止する事を企図する。FDOは国力の各要素-外交、情報、軍事、経済-を手段として実施されるものであるが、これら諸要素を横断的に組合せて実施することが最も効果的である。また、それにより初動の戦略的意思決定を容易にするとともに、早期の緊張緩和、更に幅広い対処の道筋を提示し、危機解決へと導くものである。」と定義している(傍線筆者)。
3 FDOについては前述の石原論文や六車昌晃「危機管理における強制外交と柔軟抑止選択肢(FDO)」『陸戦研究』通巻第652号(2006年1月)が詳しい。
4 白色艦隊(Great White Fleet)については、谷光太郎「ルーズベルトの外交政策とグレート・ホワイト・フリートの世界巡航」『波涛』通巻第141号(1999年3月)、横浜開港資料館館報『開港のひろば』101号(2008年7月)及び102号(2008年10月)、川井裕「外国軍艦の日本訪問に関する一考察-1908(明治41)年の米国大西洋艦隊を対象として-」防衛研究所戦史研究年報第14号(2011年)が詳しい。
5 伊藤泉美「白船来航-米国大西洋艦隊に沸く100年前の横浜・東京」『開港のひろば』101号(横浜開港資料館、2008年7月)1頁。
6 同上、1頁。
7 同上、1頁。
8 谷光太郎「ルーズベルトの外交政策とグレート・ホワイト・フリートの世界巡航」『波涛』通巻第141号(1999年3月)39頁。
9 同上、40頁。
10 伊藤「白船来航-米国大西洋艦隊に沸く100年前の横浜・東京」、1頁。
11 川井裕「外国軍艦の日本訪問に関する一考察-1908(明治41)年の米国大西洋艦隊を対象として-」『防衛研究所戦史研究年報』第14号(2011年3月)78頁。川井によると、サンフランシスコまでの寄港地はポート・オブ・スペイン、リオデジャネイロ、プンタ・アレナス、カヤオ、マグダレナ湾であるが、文献によって異なり、Michael J.Crawford, THE WORLD CRUISE of the GREAT WHITE FLEET, (Washington: NAVAL HISTORICAL CENTER, 2008) によると、バルパライソ、サンディエゴ、ロスアンゼルス、シアトルにも寄港している。
12 川井「外国軍艦の日本訪問に関する一考察」76頁。
13 同上、82頁。
14 同上、83頁。
15 同上、83頁。
16 同上、83-84頁。
17 同上、84頁。
18 伊藤泉美、上田由美「白船来航-米国大西洋艦隊を迎えた人・街・メディア」『開港のひろば』101号(横浜開港資料館、2008年7月)2頁。
19 同上、2頁。
20 同上、2頁。
21 同上、2頁。
22 同上、2頁。
23 川井「外国軍艦の日本訪問に関する一考察」95頁。
24 伊藤泉美「磯村春子-白色艦隊艦長夫人たちの接待役について」『開港のひろば』102号(横浜開港資料館、2008年10月)2頁及び川井「外国軍艦の日本訪問に関する一考察」88-89頁。
25 川井「外国軍艦の日本訪問に関する一考察」88頁。
26 同上、88頁。
27 伊藤、上田「白船来航-米国大西洋艦隊を迎えた人・街・メディア」3頁。
28 川井「外国軍艦の日本訪問に関する一考察」87頁。
29 同上、87頁。
30 伊藤、上田「白船来航-米国大西洋艦隊を迎えた人・街・メディア」3頁。
31 日本海軍では、約4年毎に艦隊、鎮守府、警備府の全部又は大部分が参加して行う演習のことを大演習と定め、軍令部総長が統監した。明治41年度大演習は第1期と第2期に分けて計画され、白色艦隊が横浜に入港している間は第1期として「艦隊の出征前に施行すべき海戦諸要務及軍港防御の一部を実施考究せしめ」るものであった。この期間、「三笠」をはじめとする日本の主力艦艇は米艦艇のホストシップとして横浜港に錨泊していた。艦隊を南北に分けて行う実働演習は第2期で、白色艦隊が日本を去った後に行われた。
32 川井「外国軍艦の日本訪問に関する一考察」91頁。
33 同上、91頁。
34 同上、91頁。
35 他国にとって脅威となり得る強大な力を携えつつ穏やかな姿勢で対話に臨むという外交方策。米国大統領セオドア・ルーズベルトがはじめて用いた表現。
36 横須賀市自然・人文博物館所蔵。米大西洋艦隊司令長官スペリー少将の写真、絵はがき、艦隊乗員へ贈られた記念品や乗員総員に配布された鉄道の特別乗車券などの写真がある。